審査委員
● 木幡 和枝(先端芸術表現科教授)、○ 河本英夫(東洋大学文学部教授)、◎ 八谷 和彦(先端芸術表現科准教授)、
小谷 元彦(先端芸術表現科准教授)、
花村誠一(東京福祉大学社会福祉学部教授)
1981年 東京都生まれ
2007年 東京芸術大学美術学部先端芸術表現科卒業
2009年 東京芸術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修士課程修了
主な展示
2008年 「リハビリテーションとアート―触覚地図」日本認知運動療法学術集会 特別展示(東京)
2009年 「MEMENTO VIVERE/MEMENTO PHANTASMA」旧在日フランス大使館庁舎(東京)
2013年 「天命はなお反転する―人間再生のための環境 荒川修作+マドリン・ギンズとともに」特別展示(東京)
主な受賞
2007年 ART AWARD TOKYO 2007 特別賞
2011年 愛知建築士会 建築コンクール 古谷誠章賞
《AIR TUNNEL 》外観
《AIR TUNNEL 》外観(部分)
《AIR TUNNEL 》内観(部分)
ミシェル・フーコーによれば15世紀以来、芸術の想像力には狂気を昇華するような文化があり、ボッシュやブリューゲルなどの絵画をとおして、妄想状態や夢幻状態における現実世界の悲劇的な「狂気」が描かれてきた。それは狂気が一般化、普遍化される以前のものであり、未だ生と死という二項対立として捉えられる以前の、「死」のみの世界がある。かつて「死」は人間の痴愚(狂気)とされてきたが、文芸や芸術の世界における画像の根本的な転換をとおして表象されてきたのである。ところが18世紀のフランス革命後の社会再編にともない、狂人は監獄に隔離され、狂気(病気)が理性のもとで制度的に配置されることになった。この時期にフーコーの記述には最初の分裂病が見られるが、本論では精神病理から発達障害までを範囲に、経験の変容と再組織化にともなう個体化の現実(自然)を踏まえ、芸術をとおして見えてくる現代の病理とその個体的環境について問う。
第一章では、言語と知覚による「指示」の働きを考察する。そこで精神病のカプグラ症(同一性否認)やオレオレ詐欺に見られる自己指示語など、「指示」に含まれる知覚の確からしさ(強度)を取り上げる。個体を特定する固有名、あるいは指示の強度(このもの性)の哲学、文学を踏まえた上で、脳神経系の感情回路が指示を保証していることを見るが、強度性を問題にする以上は還元論的な視点には矛盾がある。経験の「このもの」や「その人」といった指示語が示す確からしさに迫るため、「何」ではなく「どこ」または「どのように」という経験に注目し、固有名とのギャップを明らかにする。
マルセル・デュシャンの「三つの停止原器」では、一メートルの長さの紐が一メートルの高さから落下することにより、偶然にできた形が宙づりとなって「停止」している。こうした「世界の裂け目」が示唆しているのは、「メートル」の最短距離が一つには決まらないということであり、世界は停止できず、絶えず個体化しつづけるプロセスであるということだ。現にメートルの単位は個物から光の速度に変わったことで、より頑健な(変わることのできない)測度を確立したともいえるが、本論では事実上の個体化に焦点を当て、イメージのネットワークを設定した上で指示語を再考する。こうした別の強度に、「単純な精神病」と「複雑な精神病」の萌芽を仮定し、次章の導入とする。
第二章では、統合失調症のダイアグラムをもとに、芸術作品に含まれる狂気を現象学的に記述する。それは臨床的な鑑別診断というよりも、芸術作品をとおして精神病理学にアプローチする病跡学的視点を提示するものであり、その作家の潜在的な病的資質を探ることを試みる。これを「美学的スキゾフレニア」と名付けた。現代の作品には、ある種の解離的な病理を含んだ狂気が見られるが、主に強度の喪失に関わる離人症は、観察者の逆説的な「痛み」を照射する上で示唆的である。解離しながら迫真的でもある画家のフランシス・ベーコンと、映画監督のデイヴィッド・リンチの作品を中心にして、現代において単純さと複雑さが重層する精神病のありようを見ていく。
ベーコンの一九五〇年代に見られる<教皇>シリーズをはじめとした、縦縞のノイズのある筆触の作品群では、図版や写真、または映画などのイメージ・ソース(映像的写し)を引用したことで「ポップアートの源流」(東野芳明)とも目されたが、キャンバスの上に描かれたイメージを掻き消すような所作により、人物の触覚性のなさ、現実感のなさが強調されている。一九六〇年代になると所謂ベーコンの作品に特徴的な、顔を歪ませる描き方への変化が見られ、内臓が裏返ったかのような図像が見られる。こうした作風の変遷に、触覚性の喪失した離人神経症から、世界が裏返ったかのような離人症(精神病)の世界への移行を読み取ることができるだろう。
またリンチの作品では、観察者の視点が内に含まれた映画の物語システムによって、人物の不透明な身体が解離したり変貌したりする妄想状態を捉えている。音と映像の解離に幻聴や思考伝播などを見ることも可能だ。単純な現実と妄想(夢)という構図では捉えられず、物語がメビウス状に展開されることにより、当人にとっての世界や感覚に接近している。ここでは人物誤認、逆同一化、常同症をキーワードに分析する。
第三章では、個体の再組織化を踏まえて、より実践的なリハビリテーションの臨床に傾注していく。ここでは欠けたものを付け足して正常な状態に戻すことではなく、新たに個体を再組織化する、という意味でのリハビリを設定する。
死を意味として設定した人類は、生と死の二項対立を「知る」ことにより、可能性の幅を縮減してしまう。自分の死を経験することはできないという意味での逆説的な不死ではなく、絶対的な生のもとで死ぬことができない身体を宣言した荒川修作の作品を通じて、知覚そのものの形成について考察する。死はここに来て、個体的な記憶そのものの自己収束といった意味合いを帯び、逆に生は再組織化にともない常にみずからを更新しつづけることである。
発達障害である脳性麻痺のリハビリテーションでは、行為することにともなう調整の働きや自分であることの感じさえ喪失した子供に向き合うセラピストの眼差しがある。社会システムにとっての構成素が人間ではなくコミュニケーションを単位とするように、リハビリテーションでの関係もカップリングから生まれ、他人との間で起きる経験に重点が置かれる。こうした場面で光、空気、重力のような触覚性空間について吟味し、意識が場を占める働きを通じて個体にとっての現実を問い直す。環境は個体と不可分離であり、そのような先験的な働きを喪失し、感覚が過度に過敏になることで、個体はみずからにとっての選択性を失った閉域に向かう。個体の境界が内とも外とも言えないように、生そのものと死そのもののどちらとも言えないような個体化があり、まさに個体は個体化をつうじて、みずからの生を組織化する。そうした生の可塑性を深化させるための意味を考察にすることになる。
AIR TUNNEL(document)》展示風景