審査委員
● 木幡 和枝(先端芸術表現科教授)、○ 北澤 憲昭(女子美術大学教授)、◎ 八谷 和彦(先端芸術表現科准教授)、小谷 元彦(先端芸術表現科准教授)
1983年 高知県生まれ
2006年 京都造形芸術大学芸術学部情報デザイン学科卒業
2008年 東京藝術大学大学院美術研究科修士課程先端芸術表現専攻修了
『破滅*ラウンジ』展会場風景 2010年
本論文の目的は、今日の情報社会におけるアート作品の在り方を検討することである。
本論文は四章構成である。以下、各章の概要を記して、本論文の要約とする。
第一章では、情報社会における「作者性」の変容について確認する。今日の情報環境においては、創作物はアーティストという個人によって生み出されるよりも、「プラットフォーム」や「アーキテクチャ」と呼ばれる環境が生成するものである、という「運営の思想」が優勢である。本章では、二〇〇〇年代後半に登場した「ソーシャルゲーム」を分析することで、プラットフォーム設計がコンテンツの内容を決定するという「運営の思想」の最新バージョンを分析する。
第二章では、情報社会における「運営の思想」の問題点と、その解決策について検討する。あらゆるものがデータ化され、分析の対象となる「ビッグデータ社会」では、どうしても「運営の思想」が優勢になることは避けられない。しかし、二〇〇〇年ごろから一部の法学者などが警鐘を鳴らしていた「デイリー・ミー」や「エコーチェンバー」問題、あるいは二〇一〇年以降から具体的に危機意識が高まってきた、過剰な「パーソナライゼーション」が生み出す「フィルターバブル」といった問題があきらかにしているように、「運営の思想」は、過去のデータをもとに未来を予測するという方法をとっており、「過去のクリックが今後目にするものを決める情報の決定論」(イーライ・パリサー)となってしまう。フィルタリングが完全におこなわれた世界では、予想外の驚きや学びがなく、つまり「他者との偶然の出会い」が消失してしまい、創造性にとって致命的な環境を生み出してしまう。かといって、「他者との偶然の出会い」を組み込んだプラットフォーム設計、というのは語義矛盾であり、これまでもあまり有効な解決策が提示されていない。本章では、それらの問題をプラットフォーム設計からのみ解決しようとするのではなく、コンテンツからの視点を導入する。二〇〇〇年代終わりに作られたアニメ『らき☆すた』と特撮『仮面ライダーディケイド』は、まさに「プラットフォーム決定論」が優勢の状況の只中で制作されながら、自らが立脚するプラットフォームを観察、分析し、「メタ・プラットフォーム」とも言うべき自己言及的な表現に達している。それは、「運営の思想」がもたらす一元化された世界をコンテンツによって内破し、「他者との偶然の出会い」へと開かれる「制作の思想」の可能性を示唆している。
第三章では、情報社会において、プラットフォームとコンテンツがどのような関係を結ぶべきかについて考察する。「運営の思想」が可能になったのは、プラットフォームが生み出す力があったわけだが、一般にそれは「創発」と呼ばれる。「創発」は情報環境だけでなく、都市論や生物学、社会学においても存在し、プラットフォーム論の基盤として議論されてきた。本章では、「創発」という概念が学術界や芸術の世界で注目を集め始めた一九六〇〜七〇年代に一度遡る。そこで、岡本太郎と寺山修司の思想と実践を分析することで、彼らがインターネットなき時代の「創発」性をいかに作品化し、「運営の思想」と「制作の思想」を共存させていたのかを確認する。とりわけ、寺山修司の「市街劇」は、都市というプラットフォームの創発性を、演劇というコンテンツによって取り出すことによって作品化していたという点で、示唆に富むものである。寺山の「市街劇」の実践が証明しているのは、プラットフォームとコンテンツは従属関係にあるのでも、乖離しているのでもなく、たがいに相互作用を起こすことによって新しい成果物を生み出すという関係性があり得るということである。
第四章では、寺山の「市街劇」を「拡張現実(AR)」の起源と捉え、現在流通している拡張現実的コンテンツと比較することによって、その差異について確認する。「市街劇」が実践した拡張現実は、「負の拡張現実」と呼ぶべき両義的な試みであり、その両義性は、今日におけるアート作品にとって重要な概念であることを論じる。