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巖谷 睦月

IWAYA Mutsuki

芸術学研究領域(西洋美術史)

審査委員
● 越川 倫明(芸術学科 教授)、田邊 幹之助(芸術学科教授)、佐藤 直樹(芸術学科 准教授)、和田 忠彦(東京外国語大学教授)


東京藝術大学大学院美術研究科芸術学専攻西洋美術史修士課程修了

主な受賞
2009年 イタリア政府奨学金留学生
2010年 第4回秀桜基金留学賞受賞


ルーチョ・フォンターナの空間主義

—1946年から1958年までを中心に—

ルーチョ・フォンターナ(1899−1968)は、アルゼンチンのロサリオ・デ・サンタ・フェにイタリア移民の子として生まれた。彼の芸術家としての主な活動はイタリアのミラノにおいておこなわれており、その内容はセラミックやテラコッタによる塑像、カンヴァスを使用した造形作品、ネオンなどの素材を使用したインスタレーションなど、多岐にわたる。
しかし、この作家の制作活動において特筆すべきは、彼とその周囲によって提唱された「空間主義」という芸術運動である。本論文では、この「空間主義」と、その思想のもとに生み出されるフォンターナの作品における空間をとり扱う。
この作家の提唱する「空間主義」は、フォンターナが戦火を避けて戻った母国より帰還した1947年、『空間主義者たち(空間主義第一宣言)』の発表とともに誕生した。この芸術運動は第二次世界大戦後のイタリアにおいてもっとも重要な芸術運動のひとつであり、1949年から制作の始まった《空間概念》と呼ばれるカンヴァスに穴を穿つ作品群は、フォンターナおよび空間主義の代名詞となっている。
本論文では、「空間主義」誕生以前の1934年の作品および、誕生直前の1946年から、《空間概念》のカンヴァス作品群のうちでもっとも印象深いと思われる《空間概念》の「切り口」のシリーズが誕生する1958年までの作品と、発表された宣言文を主に扱った。この作家の研究において大きな命題となる、空間主義宣言以前の作品と空間主義者としてのフォンターナの仕事の間に通低するものを求めるか否かについて、筆者は「空間主義」の萌芽はすでに1930年代に見られるという立場に立っている。この過程で、フォンターナの空間主義芸術に対する未来派の影響についても具体的に作品をあげたうえで考察をおこなった。
フォンターナの初期の芸術精神と、空間主義以降の芸術精神に通底するものがあるという、思想の上での比較・批評的な言説は多く見られるが、実際に初期作品から晩年までの作品について、個々を造形的に分析したうえで「通底するもの」、つまり「空間主義的なるもの」をとらえようとする試みはこれまでにほぼ見られない。本論文で筆者が目指すのは、フォンターナの作品制作における「空間主義的なるもの」を、具体的な造形分析をおこなったうえで定義することである。この目的に達するため、以下のとおりに論を構成している。
第1章においてはまず、いくぶん複雑な出自を持つルーチョ・フォンターナの生涯と経歴を追ったうえでその評価史と研究史にふれ、空間主義宣言以前の作品と、空間主義者としてのフォンターナの仕事の間に通低するものを求めるか否か、というこの作家の研究における課題に対し、それを求める立場で論を構成していくことを明記した。
これをふまえ、第2章の第1節では、1947年の「空間主義」誕生にいたるまでのフォンターナの制作活動のうち、この作家が芸術家としての道を歩み始めた最初期の1930年代の作品をとりあげている。ラファエレ・カリエーリは1930年代のフォンターナの作品のうち、特に第6回ミラノ・トリエンナーレでの〈名誉の間〉のプロジェクトについて、「空間主義」の宣言に先立つものだとした。これに対し、筆者は1930年代の作品についてはむしろ、カリエーリのあげた1936年のプロジェクト以上に、1930年代前半の彫刻やタブローの作品に「空間主義的なるもの」の萌芽がみられると考え、これらの作品の造形的な分析を通して、「空間主義的なるもの」の定義にいたる第一の段階を示す。続く第2節では、1940年代のアルゼンチンの政治・社会状況および芸術状況を確認し、1946年にブエノスアイレスで発表された、「空間主義」の礎となる考え方を示す『白の宣言』そのものについて検証している。同時に、1940年代前半を主に具象的なモティーフの彫刻を制作して過ごしたフォンターナがこの年に描いた、非具象的なドローイング群に焦点を当て、「空間主義」誕生直前のフォンターナについて再度見つめなおすことを試みた。
この「空間主義」誕生前夜の状況を念頭においたうえで、第3章では1947年の第一宣言の発表にともなう「空間主義」の誕生と、のちにフォンターナの作品の代名詞となるカンヴァス型の《空間概念》シリーズの誕生を扱う。第1節では、「空間主義」の宣言のうち、1947年から1950年までの間に発表された最初の三つの宣言についてその内容の解説と解釈をおこない、「空間主義」という芸術運動はいかなる定義のもとに誕生したのかを確認した。そのうえで第2節では、1949年に始まるカンヴァス型の《空間概念》シリーズに至る前に制作された“《空間概念》前夜”の作品である「空間的」彫刻群についての分析を試み、これを「色彩と物質と形態を通して定着された最初の空間概念」と定義している。さらに第3節では、《空間概念》シリーズが制作されるわずか前に生まれた、「空間環境」シリーズの最初の作品である《ブラックライトの空間環境》についての造形的な分析を試みた。このインスタレーション作品に見られる、1930年代の《抽象彫刻》シリーズとの類似点と、そこからの発展を指摘し、1951年に発表される『技術宣言』以前の空間主義の宣言文において提唱された内容を、もっとも直裁に表現した作品であると規定する。最後の第4節では、1949年についに誕生した、カンヴァス型の《空間概念》シリーズの最初の作品についての造形的な分析をおこなった。錐のような先端の尖ったもので複数の「穴」が穿たれたこの初期のシリーズはまさに、空間主義の第一宣言と第二宣言で述べられた、作品を制作する芸術家の意識の変化によって「過去の材料」が過去のものであることをやめる、という主張に相応しいものであり、質量を持たない媒体としての「光」の通り道として「穴」が機能していることを示している。
これに続く第4章では、1951年のミラノ・トリエンナーレにおいて発表された『技術宣言』を、「空間主義」における最も重要な宣言と定義し、同じトリエンナーレの会場に設置された《ネオンのアラベスク》についての考察をおこない、技術宣言の中に見られる「空間主義」の目指す表現と、《ネオンのアラベスク》の関係性を考察した。まず第1節では、ミラノ・トリエンナーレの歴史において、1951年の第9回が初の自律的な組織の元に運営された芸術展であること、また、この芸術展にその生涯にわたって参加し続けてきたフォンターナという作家にとって、ミラノ・トリエンナーレこそが、「本領を発揮」しえた場であり、特に第9回が、この作家と彼の提唱した芸術運動である「空間主義」の、国際的な地位を築く契機となったことを確認している。次の第2節では、『技術宣言』の内容を未来派の宣言文との比較を中心として検討したうえで、《ネオンのアラベスク》について分析した。それによってこの作品が、第二次世界大戦後二回目のミラノ・トリエンナーレという場において、あえてイタリアのファシズム時代の負の遺産を連想させる未来派の表現と媒体とを使用して作り上げられたものであり、彼の中に残る未来派の記憶を自らの新しい芸術思想を通して解釈し、生みなおしたものであったと明言している。
続く第5章においては、『技術宣言』以降の宣言文の概観をおこなったうえで、《空間概念》の一連の作品のうち、カンヴァスに刃物で切り込みを入れた「切り口」シリーズについて考察した。第1節では空間主義の宣言のうち、事実上最後のものとなる、第五宣言および第六宣言についての解説と解釈をおこなっている。第六宣言は「空間」を「造形的な材料」としての「Spazio=空間」と、未だ知られていない「Spazio=宇宙における空間」とに分割し、これらを基礎におく芸術を「空間主義」と規定する。この内容を下敷きにして第2節では、《空間概念 期待》のシリーズにおいて、1949年に発見された「穴」が担った、絵画の支持体としての二次元の存在であったカンヴァスを三次元の立体へと戻すという役割に、「穴」が「切り口」となったことで《ネオンのアラベスク》に見られた「動くものの痕跡をとどめる」ための役割が加味されたこと、さらにこの「切り口」によってカンヴァスが初めて空間そのものの支持体となったことを指摘し、《空間概念》が、作品自体の含まれている巨大な空間そのものを観客に認識させるための装置として働くようになる過程について考察している。
この芸術家が「空間主義者」として望んだものは『空間をつらぬく形態、色彩』を空中にそのままとどめることであり、あらゆる媒体と表現方法を通してそれに近づいたフォンターナは、最終的に『空間をつらぬく形態、色彩』がのこされた空間そのものまでも主題とするようになった。そうして彼が到達したものこそ《空間概念》の「切り口」シリーズであり、このシリーズこそが「空間主義」の最高到達点であることを結文において示している。