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田口 智子

TAGUCHI Satoko

保存科学領域

審査委員
● 桐野 文良(保存科学教授)、○ 稲葉 政満(保存科学教授)、◎ 永田 和宏(保存科学教授)、木島 隆康(保存修復(油画)教授)


1985年 岐阜県出身
2008年 奈良女子大学 文学部卒業
2011年 東京芸術大学大学院美術研究科 文化財保存学専攻 修士課程修了


江戸時代銀貨の表面層の解析および色揚げ処理技法の復元

<はじめに>
江戸時代を通じて製造された豆板銀および丁銀はAg-Cu合金貨幣であり、これらの貨幣は時代とともにAg濃度が低下した。銀貨としての価値を保つため「色揚げ」という表面色を銀色に変化させる表面処理が施されたと伝えられるが、処理の詳細は明らかではない。また、色揚げされた貨幣の経年劣化による色彩の変化に関する研究は十分なされているとはいえない。金属文化財の制作および保存を考える上で、固有の色彩に影響を与える表面処理や経年劣化による色彩変化は重要な課題である。そこで本研究では、江戸時代に製造された豆板銀および丁銀の表面層の解析を行うことで、Ag-Cu合金上に色揚げや経年劣化によって生じる色彩変化を調べた。また、これらの解析結果を基に、色揚げの再現を行い、処理の安定性や、色揚げを行った試料の保存性を明らかにする。以上の結果から、金属文化財の制作・保存にとって有用な基礎データを収集することが本研究の最終的な目的である。

<試料>
文化財試料として江戸時代の慶長~安政期に製造された豆板銀14点、丁銀2点(桐野所蔵)を試料として用いた。これとあわせて、Ag濃度が75、45、15 wt%の3種類のAg-Cu合金を試料として用い、色揚げ処理を行った。

<結果と考察>
安政年間に制作された豆板銀の地金の江戸幕府による規定Ag濃度は13%であり、江戸時代を通して最も低いが、試料として用いた安政豆板銀は銀色を呈している。これは、試料に表面層が存在していることを示唆している。透過型電子顕微鏡を用いて、安政豆板銀の断面構造を調べると、地金上には約0.6 µmのAg富化層と、約0.8 µmのCu2Oを主成分とする酸化物層が生成されている。エネルギー分散型X線分析計による組成分析から、表面層と地金の界面近傍から銷の特徴であるHgは検出されない。このことは、Ag富化層が色揚げ処理によって形成されたことを示す。

豆板銀について、分光光度計を用いて分光反射率を測定すると、反射スペクトルは(1)反射率が低く光の波長に依存せず一定である形状、(2)波長が短くなるとともに反射率が減少する形状の二種類に大別できる。Cu100%の板の分光反射率を計測すると、600 nm付近に吸収端が確認できるが、豆板銀試料ではこの吸収端は観測されない。また、丁銀試料は豆板銀と異なり、表裏で形状が違い、比較的平滑な面と極印が打刻される面からなる。この構造の違いが色彩に与える影響を明らかにするため、試料に対して15度、45度、75度の3方向から光源を照明する変角分光イメージング装置を用いて丁銀の分光反射率測定を行った。色揚げ処理が確認された安政豆板銀と同様のスペクトルが得られることから、丁銀においても色揚げ処理が施された可能性が高い。また、角度の増加につれ、430~500 nm付近に吸収が見られ、これは亜酸化銅に由来すると考えられる。安政丁銀の茶色の錆が確認される部分では、光の入射角に依存した変化は見られず、豆板銀とは異なるスペクトル形状が確認されることから、色揚げ層を覆う腐食層の存在が示唆される。このような丁銀の表裏の形状や色彩の差は、鋳造時に使用したと推定される「湯床」とよばれる鋳型との接触や、打刻時の残留応力が要因となった可能性が考えられる。

色揚げ処理の機構を解明するため、『貨幣の生ひ立ち』(造幣局編纂、朝日新聞社、1940年)における記述を参考に、Ag-Cu合金を用いて色揚げを行うと、表面Ag濃度が上昇し、試料表面の色彩が変化し、豆板銀と類似のスペクトルが得られる。また、変角分光イメージング装置による分光反射率測定から、色揚げ試料では亜酸化銅の存在が確認される。Ag-Cu合金について、処理時間、処理液の温度等を変化させて色揚げを行ない、処理条件が色揚げ試料に与える影響を明らかにした。また梅酢の主成分である、クエン酸やリンゴ酸を用いた色揚げを行った結果、梅酢中のクエン酸およびリンゴ酸によりCuが優先的に溶出されることが明らかになった。

色揚げ処理を行った試料の耐食性を明らかにするため、恒温環境、恒温恒湿度環境での加速劣化試験を実施した。劣化試験前後の色彩変化や生成物を解析することで、色揚げ層が腐食に及ぼす影響や、今後の保存に必要な環境条件を明らかにした。

<まとめ>
江戸時代に製造された豆板銀および丁銀の解析を行い、以下の結果を得た。
1) 安政豆板銀表面には色揚げ層とCu2Oの腐食層が形成されている。
2) 豆板銀の解析結果から、丁銀においても色揚げ処理が行われた可能性を示唆する結果を得た。
3) Ag-Cu合金について色揚げ処理では、梅酢中のクエン酸およびリンゴ酸によりCuが優先的溶出されることで、試料表面が銅色から銀色に変色し、試料表面に非常に薄い亜酸化銅層が生成される。