審査委員
● 稲葉 政満(美術研究科教授)、○ 永田 和宏(美術研究科教授)、◎ 荒井 経(美術研究科准教授)、桐野 文良(美術研究科教授)
1986年 韓国ソウル生まれ
2009年 東京学芸大学文化財科学科卒業
2011年 東京藝術大学大学院美術研究科修士課程文化財保存学専攻保存科学研究領域修了
主な受賞
2012年 韓国文化財保存科学会(春季学会、国立中央博物館) 優秀論文発表賞
1. 緒言
紙資料の劣化を抑制し、長期保存対策を確立するためには、紙の劣化挙動を解明した上で種々の紙の経年劣化速度を推定する必要がある。その目的で加速劣化試験を行うが、紙の経年劣化と相関しているかどうかは常に問題となる。本研究では、経年劣化した紙資料をさらに懸垂法(恒温恒湿槽中に試験紙を吊るして湿熱劣化させる方法)とチューブ法(23℃、50%rhで調湿した試料をガラスチューブ中に一定量を封入して劣化させる方法)で加速劣化させて比較し、紙の劣化指標を新たに定義し、紙の経年劣化をシミュレートする上での加速劣化処理の特長と問題点を明らかにすることを目的とする。
2. 実験方法
イギリスで刊行された雑誌Journal of the Chemical Societyから試料14冊(1878年から1923年の 発行分)を実験に供した。加速劣化処理は、懸垂法とチューブ法を行った。
また、チューブ法における内部環境を制御するために、劣化過程でチューブ中の相対湿度が懸垂法と同じ65%rhになるように水分を加えた系と、チューブ内における紙試料と反応できる酸素量を変える ために封入する試料量を変えた系を作って加速劣化させた。紙の物理的変化は、比引裂強さ、比破裂強さ、色(L*, a*, b*)で評価し、化学的変化は、セルロースのpH、粘度平均重合度(DPv)、酸化度及び有機酸量で評価した。
3. 結果及び考察
紙の劣化指標としては、紙の物理強度の変化から求めた劣化速度定数より、それを推定初期値あるいは加速劣化前の現在値で除した劣化速度指標(新たに定義)と、時間の平方根に対して求めた変色速度定数を用いると、紙の劣化生成物である有機酸量との相関が良く、紙中に有機酸量が多い試料ほど、その後の加速劣化によっても諸物性が低下しやすい。また、紙の物性低下はセルロースの切断によって生じており、セルロースの切断には、酸加水分解反応のみならず、酸化反応も同時に寄与していた。
懸垂法とチューブ法の加速劣化挙動を比較すると、酸加水分解反応を引き起こす水素イオン濃度が チューブ法において懸垂法より増加した。これは有機酸がチューブ法では系外に揮散せずに保持されるためである。より高い水素イオン濃度の上昇はチューブ法において紙の酸加水分解をより多く発生させ、紙の諸物性の劣化速度指標がより大きくなり、セルロースの分子量低下もより速くなる。しかし、通常のチューブ法における内部の相対湿度は5%程度と考えられるので、これを懸垂法と同じく65%rhに なるようにチューブに水分を加える方が、常温での劣化環境により近づくと考えられる。
懸垂法では、有機酸の主成分であるシュウ酸は増加するが、第二成分であるグリコール酸は減少した。一方、チューブ法では両成分とも増加した。これらの有機酸成分の加速劣化前後の組成比はチューブ法の方が類似しており、この点から、懸垂法よりチューブ法が紙の経年劣化をシミュレートする上で優れている。一方、セルロースの酸化程度を示す酸化度は懸垂法の方がチューブ法より増加した。また、チューブ内の試料量が増加すると酸化度が低下した。これは、チューブ内の試料は反応できる酸素の量が制限されることが原因である。このことは冊子中の紙の劣化をよりシミュレートしていると言える。
紙試料の諸物性の常温での劣化速度を推定し、保存性を評価するために、数段階の温度(90℃、80℃、70℃、60℃)で求めた諸物性の劣化速度定数からアレニウス・プロットを作成し、常温(23℃)での諸物性の劣化速度指標(常温での劣化速度定数/加速劣化前の物性値)を算出した。一般的には、懸垂法、チューブ法ともに現在の物性値が高い紙試料ほど、常温での劣化速度指標は低く、すなわち常温環境において劣化しにくい紙であることを示した。この紙物性の常温での劣化速度指標を加速劣化前の水素イオン 濃度と比較すると、高温の単一条件での加速劣化より良い相関が得られた。これは、紙試料により劣化に寄与している素反応の寄与程度が試料によって異なっているために、温度変化したときの素反応の 全反応に対する寄与程度が試料によって異なると考えられ、紙の保存性を評価するためにはより常温に近い温度で求めるのが望ましい。
4. 結論
物理強度に関しては、劣化速度定数よりもそれを初期値あるいは現在値で除した劣化速度指標を新たに定義して用い、変色速度定数は時間の平方根に対して求めることで、より良い劣化のしやすさの指標となることを明らかにした。
チューブ法は、図書資料の重ねた紙の束の内部が周辺よりも紙中から発生する酸性物質の揮散が抑制され、また、反応する酸素の供給も抑制される状態をよくシミュレートしている。また、有機酸の組成変化からもチューブ法の方が懸垂法より優れている。しかし、チューブ中では水分量が少なく、酸加水分解が抑制されるので、チューブ中に水分を加えるなどの改良の余地がある。
紙の保存性評価は、アレニウス・プロットにより常温での劣化速度を求めるか、より常温に近い温度で加速劣化を行う方が望ましい。