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吉村 幸子

YOSHIMURA Sachiko

日本画研究領域

審査委員
● 梅原 幸雄(日本画教授)、○ 佐藤 道信(芸術学教授)、◎ 関 出(日本画教授)、手塚 雄二(日本画教授)、斎藤 典彦(日本画教授)


1983年 愛知県生まれ
2009年 東京藝術大学美術学部日本画卒業
2011年 東京藝術大学大学院美術研究科修士課程日本画専攻修了

主な受賞
2010年 再興95回 院展 初入選(11年、12年、13年入選)
2011年 修了制作 芸大美術館買い上げ
2011年 メトロ財団賞
2011年 第66回 春の院展 初入選(12年、13年入選)


<存在のゆらぎ>−空気とかたち−

うつろい

うつろい

うつろい Grand Canyon

うつろい Grand Canyon

うつろい Piazza CordusioI うつろい Piazza CordusioII

左 : うつろい Piazza Cordusio I / 右 : うつろい Piazza Cordusio II


私は、よく晴れた日よりも、曇りや雨、雪の日に流れる不思議で深々とした淋しい気配を好む。また、空気、水、光や風などの自然の構成要素と、温度や湿度による自然界の条件によって、「存在」するものが曖昧になる時間にとても惹かれる。それは、時の流れの中のほんのひとときのことであり、色彩も形態も朦朧となり、時に、闇や光、影や陽へと、互いに交錯しながら移行していく。山、川、草、木、花など、人は、目にするものを存在として認めることに馴れているが、自然の構成要素と自然界の条件が織り込まれる事により、それらが必ずしもそれ固有の形象で認識できるとは限らない
私は「存在するものが、必ずしもそのものの形象で目の前に現れるとは限らない」という言葉をキーワードに、今日まで日本画制作に取り組んできた。「存在するもの」とは自然や人、人が創ったものであり、いわば「ある」ものである。しかしそれぞれが本来持っている姿や色、つまり私の目の前に「存在するもの」が、それ本来の姿現れるとは限らない。同じ一つの存在が、時の流れや自然現象の中で、さまざまな表情を纏って私の前に現れる。さらに「見えないもの」も、存在として認められており、パウル・クレーは、「芸術は見えないものを再現するのではなく、見えるようにする」ものという有名な言葉を残している。つまり、見えるものを用いて見えないものを見えるようにする、ということである。私にとって、見えるものよりも見えないものに対しての方が興味の対象となる。例えば、「空気」という不可視なものも「存在」として認められており、それを見ようとする行為は、存在しているもの(見えているもの)に対して何らかの視覚変化をもたらしているように思える。空気が存在を包み込み、「もの」と「もの」との間に漂い、私の心情で、存在しているものの見え方が変わってくる。心もまた、不可視で「かたち」はないが「存在」として認識されており、空気と似ている。空気は、視覚では認識する事ができないが、全身で感じる事が可能であり、私が感じる空気により僅かに動く自身の心が、存在しているものをゆらがせているのではないか。
本論文は、「存在しているものが必ずしもそのものの形象で目の前に現れるとは限らない」という自身のキーワードを基に、「存在」をゆらす要因として、物理的存在としての「空気」と、心理的存在としての「空気」、その2つの空気に関連する水や時間、光など自然界の要素が、自身の「心のゆらぎ」と交錯することで生まれる新しい風景を考察した。私が行う芸術活動は、現実の模倣でも、「存在するもの」の再現でもなく、筆者から見た「存在のゆらぎ」を表現することである。そして「存在のゆらぎ」と自身の「心のゆらぎ」の関係を明快にすることで、今後の作品制作への指標とすることを目的とした。

第一章では、まず「存在」について考察する。古代ギリシャの存在論と、東洋哲学、特に仏教の般若心経の有名な語句「色即是空」「空即是色」と老荘思想から、観念的なものの見方を排除した私の絵の中での「存在」とは、どのようなものかについて探った。そして、実体はないが、存在として認められている「空気」を物理的側面から追った、ターナーと朦朧体の「空気」表現を考察した。また「空気」を心理的側面から検証し、見えないものの可視化表現として、キュビズムと、非言語表現として絵画と共通し自身の感覚に大きな影響を与えたとクラシックバレエ、中でも同じ20世紀に発展したコンテンポラリーバレエを例に挙げ、自身の内面表現について述べた。
第二章では、前章で述べた物理的、心理的側面からみた空気に関わる、自然界の条件や要素に焦点を当てた。「水」「時間」「光」の要素は、存在しているものと関わる事によって様々な「かたち」として現れることが可能になるが、同時に、存在しているものの「かたち」を明確にも不安定にもし、絶対的なものではなくする。それは、この要素に「かたち」を与えることで「存在」はゆらぐと言える。「水」「時間」「光」を各方面から検証し、「存在のゆらぎ」との関係性について考察し、本論文の主題である「ゆらぎ」について、科学からの検証と古代人の考え方を述べた。
第三章では、自身の作品から、「存在のゆらぎ」の表現について考察した。そして、存在のゆらぎの本質にせまり、自己の絵画との関わりを述べた。自身の作品の中で「空気」は重要な位置を占めているが、「水」「時間」「光」の要素も、絵を創る上でなくてはならないものである。空気を軸に、3つの要素を画面上で自在に操ることで、現実に在るものを消し、時に強調することで「存在のゆらぎ」を示す。そして、「存在のゆらぎ」の本質を述べ、「心のゆらぎ」から得た題材をもとに日本画を制作する課程と、そこでの「空気」と「水」「時間」「光」の関わり合いから「存在のゆらぎ」と「心のゆらぎ」との関係性を明快にし、今後の制作の方向性を探った。