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有馬 寛子

ARIMA Hiroko

芸術学研究領域(美術教育)

審査委員
● 本郷 寛(美術教育教授)、○ 小松 佳代子(美術教育准教授)、◎ 木津 文哉(美術教育教授)、
林 武史(彫刻科教授)、上野 浩道( 東京藝術大学名誉教授)、藁谷 収(岩手大学教授)


1985年 岩手県生まれ
2009年 岩手大学教育学部芸術文化課程造形コース美術専修卒業
2011年 東京藝術大学大学院美術研究科修士課程芸術学専攻美術教育領域修了

主な受賞
2009年 平成20年度岩手大学美術講座賞受賞
2009年 第83回国画会彫刻部奨励賞
2010年 藤野奨学金
2011年 武田薬品株式会社尚志社奨学金
2012年 平山郁夫奨学金



「ときをむかえ、ときをおくる」

「ときをむかえ、ときをおくる」


生活を見つめる場から創造性へ

―北方性教育運動と生活版画教育運動を通して―

 つくることの根源的な部分とは何か。生活性を離れて芸術性が浸透することは難しい。特に筆者の出身地である東北の歴史、風土における精神性から表現活動を行っていく際には生活を見つめる姿勢は必要不可欠である。
本論文は、東北の地域性に即した生活綴方の教育運動である北方性教育運動と、それを基盤として戦後発展した生活版画教育運動を通して、東北という場に根づく精神性を基盤として生まれる表現とは何かを考察したものである。
 両運動はそれぞれ綴方教育が国語教育の一部、生活版画が美術教育の一部として位置づけられるが、ともに教科教育の枠組みにとどまらない展開をみせる。二つの運動は、子どもたち自身が生活を見つめ、表現していくという点で、表現教育活動と捉えることができる。これまでの研究では両者の関係が比較検討されることはほとんど行われていない。それに対して本研究は、両者の関係を、これらの運動に携わった実践家の言説や子どもたちの作品などの史料から明らかにする。それは同時に、その地に生きる教師や子どもたちが表現を通して北方的環境を自ら問いなおしていった活動を追うことにもなる。
 第1章ではまず、東北という場が日本という国において歴史上どのような立場におかれていたのかを考察した。文化的中心である中央から「みちのく」と名付けられた時から、東北の地は中央に従属する関係にあった。「みちのく」に暮らす人々は中央の圧力により、蝦夷の子孫であるという本来のアイデンティティを奪われ、制度上のみならず精神的にも「日本化」されていく。多くの犠牲を払いながら「日本化」したにもかかわらず、東北は不運を招く土地として忌み嫌われ、中央に服従した蝦夷を意味する「俘囚」という烙印を付与された。また、資源や労働力を中央へ提供し、国内でありながら植民地的な役割も担わされてきた。
 第2章では東北の地域性に即した生活綴方の運動である北方性教育運動について考察した。戦前に東北の教師たちが実践した生活綴方の運動は、生活台と呼ばれる自らの生活の足場を見つめることから始まった。綴方教師たちは、北方的自然環境に起因する厳しい生活環境の中で、自己の存在感を保ち、連帯してどのように生きるべきかを模索していた。全国一律の国定教科書は東北の生活に即したものではなく、東北の地域性に即して子どもたちの将来を展望する教育を模索する上で生活綴方は大きな役割を担った。この運動は、東北の子どもたちが貧しい生活台で環境に埋没せず、労働に従事せざるをえない自らの生活を俯瞰してみる力をもたせた。自然の美しさや人々の心情は生活を見つめることで初めて気付かれるものであり、生活綴方における詩や散文には、生活の描写を表現にまで高めたことで見えてくる造形性と物語性があらわれている。また、地方での綴方教育の特色である方言の許容により、その場のもつ空気感や臨場感、登場人物の感情が現実味をもって表現される。
 第3章では戦後全国へ広まり、特に東北部で活発となった生活版画教育運動について考察した。戦後、生活綴方の文集の挿絵であった版画においても生活を見つめる動きが生まれ、木版画を中心とした生活版画運動は全国に広まった。この運動が定着したのは東北の特に農村部であった。労働者でもあった子どもの視点による描写は生活綴方と同様に地域の生活を的確に捉え、民衆が懸命に生きる姿を映し出している。ただし、生活版画を進めた教師たちの多くは国語教師であり、その実践は綴方的生活直視の方法論を版画におきかえたもので、美術教育の視点に立った場合、抽象的な内面の表現、造形性の探究という根本的な部分が不足している。造形性を追求していくなかで精神性が求められ、その先に地域性を見つめるというプロセスがなければ、素朴さのみが評価され、綴方が貧乏綴方と揶揄されたように一地方に留まった表現となってしまう。
 第4章では第2章・第3章で論じてきた戦前・戦後の生活を見つめる教育実践についての考察を現代へとつなぐ視点を得るために、イヴァン・イリイチの「ヴァナキュラー」な価値を取りあげた。「ヴァナキュラー」な価値とは、「人間生活の自立・自存を志向する」ものであり、東北の基層に息づく自然への畏れと敬いを備えた縄文的思考にもその共通性が見られる。美の本質を探るためにもその土地に根づいた独自の姿勢は必要であり、それは「日本化」と近代化によって中央に従属させられてきた東北の地で自立した創造性を構築することを可能にする。
 芸術作品が地域から浮遊したものとなっている状況に対して、生活綴方と生活版画における子どもたちの作品から創造活動の原点となる表現の意味を問い直すことは、現代における創造性を捉え直すきっかけとなる。本論文の意義は、この点を明らかにしたことにある。

「ときをむかえ、ときをおくる」

「ときをむかえ、ときをおくる」