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會田 涼子

KAITA Ryoko

建築理論研究領域

審査委員
● 野口 昌夫(建築科教授)、元倉 眞琴(建築科教授)、陣内 秀信(法政大学教授)、光井 渉(建築科准教授)


1981年 山口県生まれ
2005年 横浜国立大学工学部建設学科建築学コース卒業
2009年 東京芸術大学大学院美術研究科修士課程建築理論専攻修了
2011~2012年 イタリア政府給費奨学生としてフィレンツェ大学建築学部地域都市計画学科に留学
2013年~ 日本学術振興会特別研究員


19世紀フィレンツェにおける建築家ジュゼッペ・ポッジの都市改造に関する研究

本研究はイタリア王国の首都時代(1865-1871)におけるフィレンツェの都市改造を指揮した建築家ジュゼッペ・ポッジによって策定されたマスタープラン「プロジェット・ディ・マッシマ」を、計画上の実務的側面に着目し、ポッジの実態と理念を明らかにすることを目的としている。論文の構成は、序章、本章(第1章から第5章)、終章である。
第1章では、フィレンツェの近代都市改造を分析するため、建築家ジュゼッペ・ポッジが作成した報告書『フィレンツェ拡大事業』の精査を行い、マスタープランの全容を明らかにし、ポッジの意図がもっとも反映された計画と考えられる、ミケランジェロ広場、コッリ大通りと周辺住居地区、市門周辺の整備事業を抽出した。
第2章から第5章では、これらの計画を分析対象として、実施図面や地形図などを用いて、各計画を実務的な観点から分析している。
第2章では、ミケランジェロ広場の建設に関して、その目的と要求された機能と形態を実務的側面から分析している。ここでは、イタリア国家統一の流れの中ではじめて利用可能となった土地の形状が広場の形態を規定し、歴史的に地盤改良が必要とされてきたことにより、土留めと排水機能を持たせたるための規模と形態が採られていることを明らかにした。そこではルネサンスの建築言語を用いるなど、近代的土木事業に美観的調整を加えた、新しい機能を担う建築的工夫がなされていた。
第3章ではコッリ大通り建設に関して第2章と同様の分析を行っている。コッリ大通りは緩やかな傾斜となるよう計算されたものであり、近代都市に求められていた交通インフラとして要求に応えるものであった。その路程は洪水対策が考慮され、かつ飲料水や散水の問題を近代的技術によって解決したからこそ実現可能となっていた。また、イタリア国家統一の動きの中で利用可能となった王室所有地を収用し、既存建築を回避した路程としたことで、財源が厳しい中でも広範囲にわたる大規模な道路が実現できた。
第4章では、第2,3章の丘陵地区の計画に対して、都市部の計画であるクローチェ門広場とカヴール広場を取り上げている。ここでは、描かれた大規模なパース図から、残す既存建築を取捨選択し、時代の異なる2つのモニュメントが対峙する構図としていることで、都市の近代化をより強調させようとする意図が読み取れた。また、広場の形態の決定は、交通の利便性を解決し、かつ従来の機能をもった広場と、植樹された公園としての都市の近代的要素が融合された形状となっていた。市壁解体によって防衛機能と徴税の境界域が周辺の補強された河川へ代替されたが、地盤の操作によって、広場にも洪水対策としての機能を付帯させていた。
第5章では、コッリ大通り周辺住居地区に関して、ポッジ作成の規定書の建築物の配置と形態への影響を分析している。この規定書の精査により、共通の建築条件が提示されており、コムーネに建築計画を左右できる拘束力があったことが明らかになった。大通り沿いに建設された建築物の配置は、道路と敷地の接し方が影響し、その結果、大通りからは樹木の間をヴィラが見え隠れするような風景がつくり出されていた。また、そのような風景をつくる建築配置は、副次的な新設道路の設定が地形的条件に配慮された結果であった。さらに、既存建築においても大通りを意識したファサードが設置されるなど、大通りに面することに優位性がもたれていた。
最後に終章では、第1章から第5章までの各論で得られた分析結果の統合を試み、建築家ジュゼッペ・ポッジの理念と手法について考察している。
以上のように、本研究では、19世紀フィレンツェの都市改造を、実務的側面に着目し、建築家ジュゼッペ・ポッジの首都フィレンツェのためのマスタープランを事例として論考をおこなった。
ポッジがマスタープランのなかで実現しようとしていたのは、一貫して、首都としてふさわしい都市をつくるということであった。その理想像とは、フィレンツェの厚い歴史的背景にもとづく過去の遺構や、豊かな地形が浮き立つものであった。しかしながら、そこで選ばれたのは既存の構造を単になぞるのではなく、新たに手を加えることにより新しい見方を提示するという手法であった。
このようなポッジ独自の設計手法は、近代に急速に発展しつつあった土木技術に裏付けられたものであり、イタリア国家統一という激動の時代にこそ必要とされたものであった。丘陵地の計画は国家統一後に可能となった大部分の土地建物の収用によって実現し、国家の事業であればこそ可能なものであった。また、都市改造の具体的手法の決定は土木的処置と意匠的操作を両立する手法がとられていた。
ポッジによるフィレンツェの近代都市改造は、近代都市のアイコンのみでは語れない、フィレンツェの都市の固有性にもとづいた計画がなされたのだいえるだろう。