Oil Painting

過剰なざわめき

横山 麻衣

私は現在、主に色鉛筆を用いて制作を行っている。色鉛筆は、その機動性によって、溢れ出してくるイメージを素早く描き止めることができる。また、この描画材の持つ線という特性もまた、私が色鉛筆を用いて制作している大きな理由である。
 私は日常を暮らしながら、外を覗いている感覚が幼い頃からあった。自分自身は肉体という殻の内側に存在し、両目という覗き穴を通じて外界とつながっている感覚。外界という名の周辺環境は覗き穴を通って入り込みながら、本来の文脈を断ち切られ、ただ乱雑にかき集められただけの膨大な個の集合となる。外界は細切れになりながら意識の内に取り込まれ、個人的な体験に付着して新たな文脈へと変換されていくが、そこには無数のひずみが生じつづける。内と外のイメージが常に更新されているため、同じ変換は一度たりとも起こらないからだ。そして取り込んだ数々のイメージが絵画上で再び出会う時、イメージのざわめきが聞こえてくる。
 この感覚をどのように再現すべきかを試行錯誤してきたが、2012年夏に訪れたトルコで目にした絨毯が、私の作品を変えた。絨毯という存在には、長い年月を経たことによる深みのある色彩、多様な意匠の組み合わせなど様々な魅力があるが、何より共鳴したのは過剰なまでの密度だった。また絨毯は、鑑賞物ではなく祈りという、彼らイスラム教徒の日常行為に用いるための生活品である。その古い時代の絨毯は、使い古されて糸目が緩んだりほつれたりしており、精緻な幾何学文様だったはずの意匠とのアンバランスが際立っていたが、むしろそうした状態の絨毯にこそ魅了された。異様なまでの密度と精緻が崩れてゆがんだ結果、ざわめきにも似た混沌がそこに生まれていたからである。か細い色糸、執拗に繰り返される手仕事、その一手一手の痕跡として織り上げられ、やがて傷んだ傷口から綻びた繊維を覗かせる古い絨毯は、複雑極まりない精神世界そのもののように思われた。
 色鉛筆と糸は、線という特性で似通っている。色鉛筆を使い、線を集約して描くという行為は、外を覗く感覚や絨毯にも通じる、変換と再構築の感覚によく似ている。過剰なまでの情報量と、縫い合わされたイメージの不安定さ。一本の線を視野狭窄的に積み重ねることによって生じるゆがみは、やがて絵画上に構築された空間全体へと波及し、混沌としたざわめきとなる。それを色鉛筆で具現化しようとしているのが筆者の作品であり、「過剰なざわめき」という本論文のテーマでもある。
 本論文は、以下の構成から成る。
 第1章「過剰」では、自身の扱う素材の効果と、作品内の最小単位について述べる。第1節「色鉛筆」では、色鉛筆の線的な特性に基づいて、模倣する線、抽象的な観念を可視化する線、殴り書きの線、そして線という行為について考察する。第2節「絨毯の糸」では、織り絨毯の”いびつさ”への考察から、過剰なまでに積み重ねられた小さな線の堆積について述べる。第3節「サイン」では、自身の作品内の最小単位である単純な幾何学的図形と、ピクトグラム、エクスクラメーションマークなどの記号について述べ、絵を記号化することで生じる匿名性と、それを応用することで得られる、特徴を強調する機能について考察する。
 第2章「ざわめく」では、自身の作品の空間のあり方について考察する。第1節「反復」では、まず、狭い空間が無数に反復することで生じる、“迷宮”の性質について述べる。次に、主観によって“支離滅裂に”混在した外界の情報を表現する方法として、手仕事の反復行為によるイメージのズレと変容について考察する。第2節「ざわめく風景」では、まず、ピクトグラムとして簡略化された、個々のイメージを組み合わせ、平面図や断面図のように図式化して表現する方法について考察し、図式化された画面を包括するフォーマットとして、ピクトグラム化された風景である地図について考察する。次に、絨毯の“ボーダー”などを参照しながら、隔離された絵画空間について述べる。最後に、集合体を描く際の捉え方の単位について述べる。第3節「ゆらぐ色彩」では、私が長い間使用し、現在はあえて避けている、黒という色の性質について考察し、次に、色彩が自身の主観的イメージを通じて変容していく過程について考察する。最後に、版表現による色と、色鉛筆による色の違いについて述べる。
 第3章では、これまでの考察をふまえて提出作品について解説する。
審査委員
ミヒャエルシュナイダー 佐藤道信 三井田盛一郎  斉藤芽生

横山 麻衣

過剰なざわめき


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