→保存修復・日本画
近代日本画 の美人画における胡粉 を活かした 活かした 賦彩表現

 ―鏑木清方筆《妓女像》の想定復元模写を通して― 
 

郝 玉墨

→審査委員   
荒井 経
 塚本 麿充 國司 華子
 北野 珠子 有賀 祥隆 大竹 卓民

胡粉は、近世から継承されてきた白色顔料である。江戸期においてその用法や用途がすでに広がってきた。近代日本画における胡粉の伝統技法がそのまま継承されるだけではなく、数十年間にわたる日本画家たちの模索によって新たな絵画様式が生まれた。
本研究では、近代日本画の美人画における胡粉の役割に着眼する。日本画が、明治の模索期、大正の実験期を経て、概ね昭和初期に技法的な安定を確立した背景には、墨による線描と胡粉による不透明彩色の関係の確立があったと推測したからである。
近代日本画における美人画の発展に関する著述が散見されるが、美人画の描画技法に関する研究は画家自身が残した技法書や随筆によるところが多く、絵画技法としては体系化されていない。東西の近代美人画を代表する鏑木清方と上村松園の作品変遷を概観しても、明治後期には、素地の表現、墨の濃淡やぼかしによる立体表現が基礎になっているが、大正期には徐々に平明な画面を形成していく。この変化に介在している要因の一つが、胡粉による効果である。
近年、日本画を東アジアの中でとらえようという機運が高まっている。そうした中で注目される観点の一つに、近代日本画における美人画と現代中国画における工筆人物画の類似傾向が挙げられる。工筆人物画の制作工程で、下図を何度も推敲することで得られた線を墨で描き、その後に彩色を加えていくという手順は、近代日本画における美人画の制作工程と共通している。しかし、二者の色彩技法には大きな違いがある。
宋元時代から、水墨表現を重んじる文人画が隆盛する一方で、工筆画の艶やかな色彩表現が衰退した。清時代に至ると中国絵画の審美観は、文人が理想とする「筆墨」、「写意」、「淡雅」に収斂され、色彩表現の地位がより一層低下したのである。さらに、文化大革命時代に古典的な彩色材料と彩色技法が途絶えてしまった。具体的には、画家自らが膠で顔料を練るという工程が失われ、予め媒材と混合されたチューブ絵具や固形絵具に置き換わってしまったことである。前者と後者の大きな違いは、一定の層を形成する不透明彩色の有無であり、アラビアゴムを主剤とする後者においては水への可逆性が高いために、顔料層の形成や被覆力をもった塗り重ねが困難だということである。現在、かつて日本に留学していた画家たちが岩絵具の知識を中国へ輸入し、顔料を膠で練る彩色技法は徐々に中国画家に受け入れられてきているが、いまだに主流絵画にはなっていない。
本研究は、特に胡粉の用法に焦点を当て、近代日本画における美人画の確立を技法材料の視点から明らかにすることを目的とし、ひいては絵画全般における不透明彩色の役割について考究するものである。そのために、想定復元模写の制作という実技による実証を試みた。
序章では、日本の平安時代と江戸時代の作品を比較することによって、江戸時代に鉛白から胡粉への転換期の絵師たちは、鉛白から胡粉へ徐々に切り替えていく過程で、鉛白による混合彩色の手法を受け継いでいったことを推測した。
第一章では、先行研究に基づいて近代日本画における美人画の登場と時代背景を述べ、鏑木清方作品の位置付けを確認した。
第二章では、研究対象作品とする鏑木清方《妓女像》(昭和 9 年、原本焼失)の下図と未定稿の制作工程等に関する調査を行って想定復元模写の重要な根拠とした。また、清方の明治期の代表作《一葉女史の墓》(明治 35 年)と昭和期の《築地明石町》の彩色と線描を比較することによって、画業前後期の彩色技法の相違点を見出した。
第三章では、近代において絵絹の発展と変化は絵画手法の変化を引き起こしたことが実証し、美人画の肌の色の発展及び具色の彩色表現を確認した。
第四章では、これまでの技法材料に関する考証をもとに、焼失した《妓女像》の想定復元模写制作に取り組んだ。
終章では、第四章の模写制作を通して、胡粉による色彩表現が近代日本画における美人画に不可欠な役割を担っていたことを述べた。また、従来から「線は日本画の根本」、線描と彩色は従属関係であった認識に対して、昭和初期の日本画においてこの二つの要素が平等地位という意識が必要である。
補論では、古代中国絵画における不透明色から透明色絵具へ転換の流れについて説明した。現在の中国画では透明色の染料系絵具を中心とした色彩手法から脱却していない現状において、新たに不透明色を認識する必要である。中国工筆画における、「貝殻胡粉」に関する誤解や誤認について提出し、胡粉の使用例がまだ検証されていないため、胡粉の地位がいまだに不明確であることを指摘した。