→保存修復・油画
忘れられた青色

 —西洋中世の処方(レシピ)に基づいた
         人工顔料の歴史的考察

髙橋 香里

→審査委員   
土屋 裕子
 桐野 文良 木島 隆康
 塚田 全彦 森田 恒之

中世から何世紀にもわたって処方が受け継がれてきたにも関わらず、美術史の中で語られることがなくなってしまった青色の顔料 −忘れられた青色− が存在する。本研究は、青色人工顔料の処方を読み解き、再現をすることによって、埋もれてしまった絵画技法史の一端を明らかにしようとするものである。

古来、西洋では天然の青色の絵具は貴重であったゆえに、人工顔料のための多くの処方が存在した。工業的に合成された青色顔料が登場する18世紀までは、青色といえば、鮮やかで美しい色味ではあるが非常に高価なラピスラズリやアズライトなどの天然鉱物、手に入りやすかったものの色味に問題がある藍植物由来の染料が一般的であった。それゆえ、当時の人々は青色の塗料を安価に作る方法に大きな関心を持っており、実際に、中世に書かれた絵画技法書には、植物や金属から青色塗料を作る処方が数多く記載されている。12世紀以降は、銅から人工的に青色顔料を合成する処方が繰り返し登場するようになり、20以上の技法書、50以上の処方が伝わっている。しかしながら、現代の科学分析で青色人工顔料の使用が報告されている作例は非常に限られており、中世においてこの顔料が実際に絵具として使用されたかどうかははっきりとしていない。それは、青色人工顔料の特徴が科学的に明らかにされていないことや、変褪色により現存している事例が少ないことが要因であると考える。以上を踏まえ、本研究は文献調査と再現実験を軸に、処方に記されている材料や手順の特徴、顔料としての特徴を、材料学的に検証しようとする試みである。

第1章では、西洋における青色の歴史を概観し、青色人工顔料の処方が成立した背景を明らかにした。古来、西洋では青色の絵具は希少であり非常に高価あったが、12世紀以降、青色の需要の拡大に伴い、安価な青色人工顔料の処方が模索されるようになった。
第2章では、中世の青色人工顔料の処方の文献調査を行なった。銅を主原料とする処方の中で最も古いとされる12世紀のMappæ Clavicula(成立場所不詳)、この処方に改良が加えられた14世紀のTrinity College Manuscript(イングランド)を取り上げ、合成に使用した材料、手順について検討した。
第3章では、第2章の文献調査をもとに、処方の再現実験を行なった。実験によって再現された顔料の科学分析を行ない、青色人工顔料の科学的特徴を明らかにした。さらに、塗布実験および劣化実験によって、絵具としての特性について考察した。
終章では、青色人工顔料の処方が何世紀にもわたって技法書に書かれ、身近な材料で安価に作成できるにも関わらず、美術史の中から「忘れられて」しまった要因を技法史的視点から考察し、総括とした。

本研究では、中世の青色人工顔料の処方を整理し、再現実験と科学分析によって、その材料、手順、そして顔料の科学的特徴を明らかにした。これによって、これまで科学分析において見過ごされ、存在すら「忘れられた」青色の人工顔料を、西洋中世の顔料リストに追加することができた。そして、青色を獲得するために行なわれてきた何世紀にもわたる試行錯誤の歴史を振り返ることで、西洋中世の絵画技法史の一端を紐解くことができた。

図(上) 作成中の顔料(左)と作成後の顔料(右)
図(下) 作成した顔料の二次電子画像