本論では、〈実験〉という言葉が持つ意味や性質から、実験とは何かについて考え、その実験という言葉を〈見方〉として機能させることの可能性について論じる。
実験という言葉を聞くと想起される科学的な実験や実験室、または、試すという行為のようなイメージは、実験に対する固定観念となっているが、それ故に本来の実験の意味について考える機会を失くしている。実験は元来、繰り返し行う行為についての言葉である。その観点から発して〈実験〉という言葉を美術はもちろん、その他多くの事例を基に考察し、意味を捉え直すことによって、〈実験という見方〉が可能かについて議論する。
本論は、序論・本論・結論と試論で構成されている。
序論では、問題定義として〈実験〉への捉え方を実験という言葉の持つ機能から発し、整理する。
実験はその性質を、〈失敗できるもの〉というものを内包して理解されている。それ故に軽視される事も多く、またその姿を表舞台に出す事は少ない。しかし実験がなければ成功も失敗も成立しない。実験をもっと〈それ自体〉を見るものとして捉え直す時、そこに失敗を含んだ過程という捉え方を変え、新たな捉え方を見いだす事ができるのではないかという提議から、実験を見方として捉える事への意義を論じる。
また、筆者が実験という言葉に辿り着く始まりとして、修行としての自己観察行動の形成をあげる。生活上の繰り返し行動によって得た外側からの自己観察に加え、筆者が習ってきた剣道や茶道から影響を受けたと考えられる内部への自己観察にも触れ、その両側、個や全、自己と他者、主体と客体などの関係性への観察過程にこそ、発見や見ることの構造の本質が存在することを考察する。
本論ではさらに、筆者が考える美術における実験の定義を定め、その定義に基づいて筆者が選定した美術家の作品や、その他の分野においても見られる美術的な実験の事例を取り上げる。それらが内包する問題点から、より実験それ自体に注目することの必要性を考察する。
また、実験を物の見方として扱えられるかということを論じ、その見方が叶った場合、想像の拡張や気付きが得られる可能性への議論へと向かう。この論文によって、最終的に〈実験という見方〉への理解が得られることを目指している。
この論文の最後には、試論を付する。
試論では、筆者が日々書きつけている日常の気付きや想いを綴りながら、自作や博士審査展での作品〈みることについて〉への手掛かりや、普段筆者が使う言葉について関わる物語などを話す。
ものを見るという行為は、眼の構造も霊媒師も自然現象でさえも、経験や技術の繰り返しから成り立つと言える。様々な関係性を観察することが、見るという行為を成長させる。つまりは、繰り返し行われることの積み重ねの結果であると言える。それは、修行や訓練によって身体に経験を染み込ませ、悟りを得ようとする行為としての〈実験〉と呼ぶことができると考える。
実験という言葉は既に、〈みる〉という物の捉え方なのである。
実験という言葉を聞くと想起される科学的な実験や実験室、または、試すという行為のようなイメージは、実験に対する固定観念となっているが、それ故に本来の実験の意味について考える機会を失くしている。実験は元来、繰り返し行う行為についての言葉である。その観点から発して〈実験〉という言葉を美術はもちろん、その他多くの事例を基に考察し、意味を捉え直すことによって、〈実験という見方〉が可能かについて議論する。
本論は、序論・本論・結論と試論で構成されている。
序論では、問題定義として〈実験〉への捉え方を実験という言葉の持つ機能から発し、整理する。
実験はその性質を、〈失敗できるもの〉というものを内包して理解されている。それ故に軽視される事も多く、またその姿を表舞台に出す事は少ない。しかし実験がなければ成功も失敗も成立しない。実験をもっと〈それ自体〉を見るものとして捉え直す時、そこに失敗を含んだ過程という捉え方を変え、新たな捉え方を見いだす事ができるのではないかという提議から、実験を見方として捉える事への意義を論じる。
また、筆者が実験という言葉に辿り着く始まりとして、修行としての自己観察行動の形成をあげる。生活上の繰り返し行動によって得た外側からの自己観察に加え、筆者が習ってきた剣道や茶道から影響を受けたと考えられる内部への自己観察にも触れ、その両側、個や全、自己と他者、主体と客体などの関係性への観察過程にこそ、発見や見ることの構造の本質が存在することを考察する。
本論ではさらに、筆者が考える美術における実験の定義を定め、その定義に基づいて筆者が選定した美術家の作品や、その他の分野においても見られる美術的な実験の事例を取り上げる。それらが内包する問題点から、より実験それ自体に注目することの必要性を考察する。
また、実験を物の見方として扱えられるかということを論じ、その見方が叶った場合、想像の拡張や気付きが得られる可能性への議論へと向かう。この論文によって、最終的に〈実験という見方〉への理解が得られることを目指している。
この論文の最後には、試論を付する。
試論では、筆者が日々書きつけている日常の気付きや想いを綴りながら、自作や博士審査展での作品〈みることについて〉への手掛かりや、普段筆者が使う言葉について関わる物語などを話す。
ものを見るという行為は、眼の構造も霊媒師も自然現象でさえも、経験や技術の繰り返しから成り立つと言える。様々な関係性を観察することが、見るという行為を成長させる。つまりは、繰り返し行われることの積み重ねの結果であると言える。それは、修行や訓練によって身体に経験を染み込ませ、悟りを得ようとする行為としての〈実験〉と呼ぶことができると考える。
実験という言葉は既に、〈みる〉という物の捉え方なのである。