本論文は、視覚を制作の拠り所としてきた筆者が、身体と環境の往還のプラットホームである風景への考察を目的とする制作論である。
本論の主題にある「“ひっ”繰り返す風景」とは、私の制作方法を示している。筆者の作品の全体像を「風景」というキーワードで括り、多様な制作動機やプロセス、私自身と社会や環境などの関係性を示したのが「風景」である。現実の事物である周囲の空間の情報を認識するためには、経験や知識、その他五感によって蓄積した情報を付加し、外的要因を介在させることでそれを対象化する術が必要である。ゆえに風景とは、見る側によって作られるものであると言える。風景には、環境における規則や必要な構成要素といった条件があるため、規則や条件に対応して変化していくことが必要である。そして変化していくためには、固定した最終形を持たず、可変状態を保ち続けるために「繰り返す」こと。その繰り返しの制作行為でも、写生のように実物と照合して正誤を確認するのではなく、認識に必要な情報を補完あるいは削ぎ落とすことで、対象を具体化すること。そして無意識的なものを意識的なものへと変換し、それまでの認識を「ひっ繰り返す」こと。制作という行為で、作為的なものから逸脱した在り方を示し、見慣れた空間への意識を変質させること、これこそが筆者の制作理念である。
論文は、全三章と、はじめに、おわりにを含む構成で論考を進める。
第1章「風景の見取図」では、筆者の作品の指針となる「風景」とはいかなるものかを思考する。第1節「部屋-環境がほのめかす行為」では、最も身近な風景である「部屋」の様相を取り上げ、人の痕跡を最も色濃く映す住環境について考察する。この気づきは、日々の変化に対応しながら無意識に繰り返し行っている行為と、意識的な制作行為との境界がいかなるものかを思考するきっかけともなった。第2節「ユートピア-理想の風景の形象」では、ユートピアを「理想の表現の空間」と設定し、形象化による構築のプロセスに焦点を置いて思考する。心理的作用を通して構築されるユートピアへの考察を経て、制作者が意のままに制作を行う再現性や作業の確実性が、制作者のリアリティに直結せず、むしろ乖離へと進む違和感を述べた。第3節「不可視の境界—不明確な対象と明確な気配」では、イメージと鑑賞者との間を結ぶ見えない領域、場所の物理的環境が意味を発する風景へと転移する過程を、自作品やそれに関連するアーティストの作品を通して考察する。
第2章「繰り返す」では、主体と客体が相互に作用しながら構築する関係性によって認識されるリアリティのあり方を考察する。第1節では、制作の本質である動機について掘り下げるため、視覚を通した認識と知覚では認識し得ない領域の相互関係について述べる。この示唆を受けて第2節、第3節では、「環世界」「アフォーダンス」理論を援用しながら、「見る者の主観性」と「対象の主体性」が、相互作用しながら構築する「関係性」について考察する。そしてその図式から、自作品における「風景」の立ち位置を確認する。
第3章「ひっ繰り返す」では、自作品を通して如何にして認識し得ない領域へ接近を試みたのか考察する。第1節「あやつる」では、主体が客体に意識を投影するプロセスについて「あやつる」という言葉の意味を確認し、違和感を抱いた制作行為における「操作性」について論述する。第2節では自作品を、第3節ではアトリエやドローイングを例に、未知なる領域を喚起する「ひっ繰り返す」行為の性質について考察する自作品から考察した。外部からの様々な「概念」が、身体と「作品」に侵入できる余地をあたえることで、主体の認識を揺動させ、イメージのずれと変容を生みだすこと。それを総称して「“ひっ”繰り返す風景」としていることを述べた。第4節では、これまでの考察を踏まえ提出作品について解説する。
本論の主題にある「“ひっ”繰り返す風景」とは、私の制作方法を示している。筆者の作品の全体像を「風景」というキーワードで括り、多様な制作動機やプロセス、私自身と社会や環境などの関係性を示したのが「風景」である。現実の事物である周囲の空間の情報を認識するためには、経験や知識、その他五感によって蓄積した情報を付加し、外的要因を介在させることでそれを対象化する術が必要である。ゆえに風景とは、見る側によって作られるものであると言える。風景には、環境における規則や必要な構成要素といった条件があるため、規則や条件に対応して変化していくことが必要である。そして変化していくためには、固定した最終形を持たず、可変状態を保ち続けるために「繰り返す」こと。その繰り返しの制作行為でも、写生のように実物と照合して正誤を確認するのではなく、認識に必要な情報を補完あるいは削ぎ落とすことで、対象を具体化すること。そして無意識的なものを意識的なものへと変換し、それまでの認識を「ひっ繰り返す」こと。制作という行為で、作為的なものから逸脱した在り方を示し、見慣れた空間への意識を変質させること、これこそが筆者の制作理念である。
論文は、全三章と、はじめに、おわりにを含む構成で論考を進める。
第1章「風景の見取図」では、筆者の作品の指針となる「風景」とはいかなるものかを思考する。第1節「部屋-環境がほのめかす行為」では、最も身近な風景である「部屋」の様相を取り上げ、人の痕跡を最も色濃く映す住環境について考察する。この気づきは、日々の変化に対応しながら無意識に繰り返し行っている行為と、意識的な制作行為との境界がいかなるものかを思考するきっかけともなった。第2節「ユートピア-理想の風景の形象」では、ユートピアを「理想の表現の空間」と設定し、形象化による構築のプロセスに焦点を置いて思考する。心理的作用を通して構築されるユートピアへの考察を経て、制作者が意のままに制作を行う再現性や作業の確実性が、制作者のリアリティに直結せず、むしろ乖離へと進む違和感を述べた。第3節「不可視の境界—不明確な対象と明確な気配」では、イメージと鑑賞者との間を結ぶ見えない領域、場所の物理的環境が意味を発する風景へと転移する過程を、自作品やそれに関連するアーティストの作品を通して考察する。
第2章「繰り返す」では、主体と客体が相互に作用しながら構築する関係性によって認識されるリアリティのあり方を考察する。第1節では、制作の本質である動機について掘り下げるため、視覚を通した認識と知覚では認識し得ない領域の相互関係について述べる。この示唆を受けて第2節、第3節では、「環世界」「アフォーダンス」理論を援用しながら、「見る者の主観性」と「対象の主体性」が、相互作用しながら構築する「関係性」について考察する。そしてその図式から、自作品における「風景」の立ち位置を確認する。
第3章「ひっ繰り返す」では、自作品を通して如何にして認識し得ない領域へ接近を試みたのか考察する。第1節「あやつる」では、主体が客体に意識を投影するプロセスについて「あやつる」という言葉の意味を確認し、違和感を抱いた制作行為における「操作性」について論述する。第2節では自作品を、第3節ではアトリエやドローイングを例に、未知なる領域を喚起する「ひっ繰り返す」行為の性質について考察する自作品から考察した。外部からの様々な「概念」が、身体と「作品」に侵入できる余地をあたえることで、主体の認識を揺動させ、イメージのずれと変容を生みだすこと。それを総称して「“ひっ”繰り返す風景」としていることを述べた。第4節では、これまでの考察を踏まえ提出作品について解説する。