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コンビナートを描く–ノスタルジーから生まれるユートピア–

伊東 春香

審査委員:
齋藤 典彦 佐藤 道信 植田 一穂 海老 洋

 過去に見たことのあるような風景や聴いたことのある音など、人の五感に触れる外部からの刺激で、一瞬にして当時のことを思い出し、懐かしく感じることがある。ノスタルジーと呼ばれるこの感情は、時間の流れを意識させ、切なくさせると同時に、愛しい気持ちと安心感を覚えさせる。私がテーマとして描いているのは、このノスタルジーを感じた瞬間であり、具体的には主にコンビナートの夜景をモチーフに制作している。
ノスタルジーという過去の記憶が掘り返された心地よい感情を描くことは、不確かな未来とは対照的に、裏切らない過去として、誰にも侵されない自分だけの安心できるユートピアを創り出すことである。
ユートピアを含む理想郷は、自身の「現在」を否定するものであり、それ以外の場所は、「過去」か「未来」、「彼処」にしかない。私が自身のユートピアに求めるのは、過去を思い出した時のノスタルジーだが、見方を変えれば、ぬるま湯に浸かっているかのようなこの安心感に、未来は希望とスリルを与えてくれるものであるとも言える。
本論文では、制作を通してこの考えに至った経緯と、ユートピアを創造する試みを論じた。

第1章「コンビナートを描く」では、第1節で、自身が煤煙を吐く工場群よりクリーンなコンビナートに惹かれ、それをモチーフに選んでいる理由を明確にするため、まず産業革命以降の歴史について述べた。コンビナートは、工場が集まった工業地域のことを指すが、機能ごとにつくられた工場施設同士を、生産性の向上のため近くに結びつけたことで、特異な景観を生んでいる。小さな「工場」からこの「コンビナート」への移り変わりは、石炭から石油への燃料の変化や公害によって、市街地から遠ざけられた結果としての“歴史”である。また景観評論家・岡田昌彰の分析を引用して、コンビナートの形としての魅力について述べた。第2節では、コンビナートに「美」を感じる人の心の動きから、相反する「醜」がその魅力を際立たせているのではないか、という仮説について考察した。第3節では、自作品の中でコンビナートとともに現れるモチーフである「海」と「星」について論述した。海と星は昔からずっと変わらずに存在し、近い未来にも変わることがない時間を超越した存在として、未来を感じさせるモチーフであること、また自身と自作品のバランスを保ってくれる要素であることを述べた。
第2章「ノスタルジー」では、第1節で、コンビナートとノスタルジーが結びついた修士課程の修了作品について、その時の自身の心の動きについて述べた。第2節で、3歳まで住んでいた造園土木業を営む祖父の家の環境が、コンビナートにノスタルジーを感じる自身の原体験となっていることを述べた。第3節では、自身が考える記憶の構造について、記憶とは本来危機回避能力であるという仮説について論じた。また、「些細な出来事がとんでもない大きな現象の引き金となることがある」というバタフライエフェクトを軸に、これまで積み重ねてきた記憶と過去が、奇跡的に噛み合って現在に至っていることを述べた。
第3章「ノスタルジーから生まれるユートピア」では、第1節で、様々な理想郷の中からなぜトマス・モアのユートピアを援用したのか、また、自身が画面の中にユートピアを創り出す過程について述べた。第2節では、ユートピアを実現させるために自身が試みている色調について、第3節では、ユートピアを実現させるための構図について述べた。そして第4節で、提出作品を解説した。
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コンビナートを描く–ノスタルジーから生まれるユートピア–

伊東 春香