本論は、天台宗比叡山延暦寺において本坊的機能を有していた滋賀院門跡(以下、滋賀院)を対象に、近世以降の運営組織と空間構成との関係を明らかにしようとするものである。研究対象である滋賀院は、正保2年(1645)に境内伽藍を造営 、明暦元年(1655)に輪王寺門跡の創設に伴って、その兼帯寺院となった。近世以来の建築は明治10年(1877)の火災により焼失したが、その後に復興し、比叡山延暦寺の本坊として天台宗を代表する天台座主の現住地となっている。
既往研究は、天台宗教団内での滋賀院の役割を、比叡山における輪王寺門跡の学問修行所や隠居所 、また末寺統制機関として 、部分的に論じるのみで滋賀院自体の運営体制や建築の検討は十分でなかった。近年は従来の刊行資料に加え 、『叡山文庫文書絵図目録』の刊行を契機とし 、建築史的考察を可能とする条件が整いつつある。
第1章は、滋賀院の、近世から明治期の運営組織を文書史料から検討した。滋賀院の運営組織は、天台宗教団全体の天台座主(以下、座主)、幕府の庇護を得て近世に出現した関東天台宗教団の輪王寺門跡を滋賀院門主(以下、門主)、延暦寺諸坊から選ばれる滋賀院留守居(以下、留守居)の3職が統括する体制に特異性をみいだせるが、いずれも滋賀院に常住することはなかった。明治維新の後、輪王寺門跡が廃絶すると、滋賀院に門主が常住するようになり、明治30年からは座主も常住する体制が整った。留守居は、延暦寺の寺務運営組織に代わることで、明治期以降の滋賀院の運営体制は維持された。
第2章は、近世滋賀院の境内について、建設事業の履歴や境内構成を史料から明らかにした。幕府直営修理や自力での修理を繰り返しつつ、正保2年(1645)造営の建築主要部分を大きく変化させることなく維持したことがわかった。
第3章は、近世滋賀院における身分序列による建築の使用方法、畳表や畳縁の仕様等による座敷の空間序列を確認することで、空間の特性を明らかにした。境内北は、本堂的機能に加え接客や対面のための公的な客殿と、門主の日常的政務や学文所のある私的な小書院を中心に、庫裏機能として留守居による寺務を行う用部屋、家政従事者の長屋、台所、蔵など、一般的な寺院空間が成立していた。一方、境内南は、座主を主体とした近世天台宗教団の専有空間であり、接客や対面、居住を担う二階書院、二階書院に従属する家政空間としての清所からなる。二階書院と清所、小書院と台所といった、書院と家政空間が境内南北に二組存在する構成は、座主と門主の2主体を組織運営の要とする近世滋賀院ならではの特徴と認められる。
第4章は、明治10年(1877)の境内火災の後、主要な建築4棟を比叡山内の正観院・極楽坊・鶏足院・法曼院から移築した再建過程を明らかにした。再建計画から移築元選定や工事までを約2年で遂行しており、延暦寺本坊として迅速な再興が求められたことを示している。境内の整備はその後も続き、約5年をかけて全体が終了した。明治期の運営組織の変化は、これらの建築構成に影響を与えていた。境内北に一般的な寺院空間、境内南に座主の空間を配置する空間機能の構成に変わりはないものの、門主が一般寺家から着任するようになったことは、座主との対応関係を希薄化させ、境内北の小書院の消失につながった。そのため明治期以降は、門主の専有建築を必要とせず、奥ノ間(客殿)の一部に取込まれた。明治期に再建された建築は、細部を改変しつつ現存する。
第5章は、近世・明治・現在の3期の建築について、庭園との関係に着目し、平面構成および断面構成から空間の変遷を検討した。近世の滋賀院は、建築と庭園が南北の軸をもって構成されていた。しかし、明治期の運営組織の体制の変化や、再建事業に伴う建築構成の変化は、建築と庭園の関係を変化させた。再建事業では、基本的に近世以来の庭園に配慮したことで南北軸の関係性を保ったが、二階書院と小書院、中庭(北)の関係のように、運営組織の変化に伴う建築の機能の変化から、南北軸の関係が希薄化した箇所もあった。その後、再建された建築に適合するように整備が進み、建築と庭園は東西軸の新たな関係をもつ現在の形となった。滋賀院の建築と庭園の関係を通観すると、その空間性は寺院運営組織の体制と密接に関わり合って変化していったことが指摘できた。
以上、天台宗比叡山延暦寺の本坊的機能のあった滋賀院を対象に、運営組織と空間構成の密接な関係を指摘した。この関係を、運営組織と建築配置、運営組織の体制変化による建築空間への影響、建築と庭園の眺望関係の観点から、滋賀院の空間特性をまとめた。近世滋賀院は、座主と門主である輪王寺門跡を両立させるため、境内北に、滋賀院の寺院機能を担う客殿や、門主を主とする小書院があり、境内南に、座主を主とする二階書院があった。二階書院と小書院を、地形や中庭(北)の庭園を巧みに用いて南北軸に配置する点が、近世滋賀院境内の際立った象徴性を示していた。明治期の滋賀院は、運営組織の特殊性が希薄化するに伴い、境内構成および建築が変化していった。特に、輪王寺門跡の消失は再建工事の際の小書院の除去に直結し、寺院運営組織の体制と建築空間が密接に関わり合っていた。また、門主常住の体制となったものの、宗教施設は未設置であり空間構成に齟齬のある時期でもあった。現存する滋賀院の境内は、座主の常住が求められたため、新たに宗教施設として内仏殿を付加した。これは、建築と庭園の眺望関係にも影響し、東西軸の関係を決定的なものとしていった。このような変遷をより正確に捉えた保存整備による価値の維持を、今後の課題とする。
既往研究は、天台宗教団内での滋賀院の役割を、比叡山における輪王寺門跡の学問修行所や隠居所 、また末寺統制機関として 、部分的に論じるのみで滋賀院自体の運営体制や建築の検討は十分でなかった。近年は従来の刊行資料に加え 、『叡山文庫文書絵図目録』の刊行を契機とし 、建築史的考察を可能とする条件が整いつつある。
第1章は、滋賀院の、近世から明治期の運営組織を文書史料から検討した。滋賀院の運営組織は、天台宗教団全体の天台座主(以下、座主)、幕府の庇護を得て近世に出現した関東天台宗教団の輪王寺門跡を滋賀院門主(以下、門主)、延暦寺諸坊から選ばれる滋賀院留守居(以下、留守居)の3職が統括する体制に特異性をみいだせるが、いずれも滋賀院に常住することはなかった。明治維新の後、輪王寺門跡が廃絶すると、滋賀院に門主が常住するようになり、明治30年からは座主も常住する体制が整った。留守居は、延暦寺の寺務運営組織に代わることで、明治期以降の滋賀院の運営体制は維持された。
第2章は、近世滋賀院の境内について、建設事業の履歴や境内構成を史料から明らかにした。幕府直営修理や自力での修理を繰り返しつつ、正保2年(1645)造営の建築主要部分を大きく変化させることなく維持したことがわかった。
第3章は、近世滋賀院における身分序列による建築の使用方法、畳表や畳縁の仕様等による座敷の空間序列を確認することで、空間の特性を明らかにした。境内北は、本堂的機能に加え接客や対面のための公的な客殿と、門主の日常的政務や学文所のある私的な小書院を中心に、庫裏機能として留守居による寺務を行う用部屋、家政従事者の長屋、台所、蔵など、一般的な寺院空間が成立していた。一方、境内南は、座主を主体とした近世天台宗教団の専有空間であり、接客や対面、居住を担う二階書院、二階書院に従属する家政空間としての清所からなる。二階書院と清所、小書院と台所といった、書院と家政空間が境内南北に二組存在する構成は、座主と門主の2主体を組織運営の要とする近世滋賀院ならではの特徴と認められる。
第4章は、明治10年(1877)の境内火災の後、主要な建築4棟を比叡山内の正観院・極楽坊・鶏足院・法曼院から移築した再建過程を明らかにした。再建計画から移築元選定や工事までを約2年で遂行しており、延暦寺本坊として迅速な再興が求められたことを示している。境内の整備はその後も続き、約5年をかけて全体が終了した。明治期の運営組織の変化は、これらの建築構成に影響を与えていた。境内北に一般的な寺院空間、境内南に座主の空間を配置する空間機能の構成に変わりはないものの、門主が一般寺家から着任するようになったことは、座主との対応関係を希薄化させ、境内北の小書院の消失につながった。そのため明治期以降は、門主の専有建築を必要とせず、奥ノ間(客殿)の一部に取込まれた。明治期に再建された建築は、細部を改変しつつ現存する。
第5章は、近世・明治・現在の3期の建築について、庭園との関係に着目し、平面構成および断面構成から空間の変遷を検討した。近世の滋賀院は、建築と庭園が南北の軸をもって構成されていた。しかし、明治期の運営組織の体制の変化や、再建事業に伴う建築構成の変化は、建築と庭園の関係を変化させた。再建事業では、基本的に近世以来の庭園に配慮したことで南北軸の関係性を保ったが、二階書院と小書院、中庭(北)の関係のように、運営組織の変化に伴う建築の機能の変化から、南北軸の関係が希薄化した箇所もあった。その後、再建された建築に適合するように整備が進み、建築と庭園は東西軸の新たな関係をもつ現在の形となった。滋賀院の建築と庭園の関係を通観すると、その空間性は寺院運営組織の体制と密接に関わり合って変化していったことが指摘できた。
以上、天台宗比叡山延暦寺の本坊的機能のあった滋賀院を対象に、運営組織と空間構成の密接な関係を指摘した。この関係を、運営組織と建築配置、運営組織の体制変化による建築空間への影響、建築と庭園の眺望関係の観点から、滋賀院の空間特性をまとめた。近世滋賀院は、座主と門主である輪王寺門跡を両立させるため、境内北に、滋賀院の寺院機能を担う客殿や、門主を主とする小書院があり、境内南に、座主を主とする二階書院があった。二階書院と小書院を、地形や中庭(北)の庭園を巧みに用いて南北軸に配置する点が、近世滋賀院境内の際立った象徴性を示していた。明治期の滋賀院は、運営組織の特殊性が希薄化するに伴い、境内構成および建築が変化していった。特に、輪王寺門跡の消失は再建工事の際の小書院の除去に直結し、寺院運営組織の体制と建築空間が密接に関わり合っていた。また、門主常住の体制となったものの、宗教施設は未設置であり空間構成に齟齬のある時期でもあった。現存する滋賀院の境内は、座主の常住が求められたため、新たに宗教施設として内仏殿を付加した。これは、建築と庭園の眺望関係にも影響し、東西軸の関係を決定的なものとしていった。このような変遷をより正確に捉えた保存整備による価値の維持を、今後の課題とする。