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釉薬の発色に及ぼす融剤および遷移金属の効果

猪狩 美貴

審査委員:
桐野 文良 稲葉 政満 荒井 経 塚田 全彦

 本研究は、釉薬の発色機構、および基本的な性質を明らかにすることを目的とする。研究に際しては、以下の材料を用いて試料を作製し、釉薬の発色に及ぼす融剤および遷移金属の効果を検討した。本論文では、その中から着色剤として最も一般的な酸化鉄を使用し、融剤としてアルカリ土類金属を含む、焼タルク、白石灰および炭酸バリウムを用いた鉄釉の検討結果を報告する。

主剤 |釜戸長石
着色剤|酸化クロム、二酸化マンガン、酸化鉄、酸化コバルト、酸化ニッケル、酸化銅
融剤 |炭酸リチウム、焼タルク、白石灰、酸化チタン、酸化亜鉛、炭酸ストロンチウム、酸化ジルコニウム、酸化錫、炭酸バリウム、鉛白

第1章 序論
釉薬は陶磁器の表面を覆うガラス質材料で、様々な色や質感によって装飾性を高め、耐水性などの機能性や、機械的強度を向上させる役割を担っている。陶芸家にとって、付加価値を持つ優れた釉薬作りは重要事項の一つであり、改良のための試験が重ねられている。釉薬の発色機構が明らかとなれば、試験に係る作業時間の短縮や、廃棄ロスの低減にも繋がる。しかしながら、公的な研究機関においても、研究の主な目的は実用的な新規釉薬の開発であることに加え、現在研究の主軸はファインセラミックスへと移行している。これらの背景から、高度な科学分析に基づく釉薬の物性についての検討は、あまり為されていない。そのため融剤および遷移金属の酸化物が、釉薬の色彩や性状に及ぼす効果については体系的研究データが少なく、発色機構など未だ不明な点が多いのが現状である。

第2章 実験方法
 原料の混合比は着色剤を2mass%で一定とし、主剤と融剤の比を変え、融剤濃度を5、15および30mass%とした。試料は胎土が色彩に及ぼす影響を避けるため、釉薬部分のみで作製した。試料の成形には石膏型(CaSO4)を用い、焼成は棚板の上に酸化アルミニウム(Al2O3)の離型シートを敷いて行った。焼成雰囲気は大気中で、室温から5時間で1300℃まで昇温後、20分保持し、3時間で800℃まで一定速度で降温後、自然放冷(炉冷)した。焼成後、試料の色彩、組成、形態および微細構造について分析した。

第3章 試料の色彩
 鉄釉の発色はFe2+とFe3+の平衡関係によることが先行研究により明らかとなっており、Fe3+は主に黄瀬戸や飴釉などに代表される黄色から茶色を呈し、Fe2+は青磁に代表される水色を呈すると言われる。その価数変化は主に焼成雰囲気によるとされるが、融剤による影響も指摘されている。分光反射率の測定から、試料は黄色や茶色などの反射スペクトルを示し、融剤の種類および濃度により色相、彩度および明度が異なる。また、多くの試料で青系統のわずかな吸収端が見られ、Fe3+とFe2+が共存している可能性が示された。

第4章 試料の組成および形態
 光学顕微鏡による観察では、試料により大きさの異なる気泡が見られ、白石灰および炭酸バリウムを融剤とする試料では、全体がガラス化している。一方、焼タルクを融剤とする試料では結晶の析出が見られる。X線回折による分析から、焼タルクを融剤とする試料ではマグネシウムを含む複数の結晶のピークが見られ、融剤濃度が増すと結晶化が促進される。分光反射率の測定結果と照らし合わせると、ガラス化した試料では反射率が低下し、結晶化が促進されると反射率が上がる傾向が見られた。

第5章 鉄釉における鉄のエネルギーおよび微細構造
 釉薬の色彩は、主に遷移金属の価数や配位構造に関係するとされる。試料の色彩と融剤の関係を調べるため、X線吸収微細構造を分析した。ガラス化した試料では融剤濃度が増すとFe3+のエネルギーが増し、結晶化した試料では鉄のエネルギーに大きな変化は見られなかった。また微細構造を調べると、ガラス化した試料で粒径の異なるFeおよびCaリッチのナノ粒子が見られ、融剤濃度が増すと粒径が大きくなる。ナノ粒子中のFeは凝集することでFe3+の状態に近づき、ナノ粒子以外のガラスマトリックス中では、相対的に多くの酸素と結びついてFe2+に近づく可能性が高い。よって、ナノ粒子とガラスマトリックスの体積分率は、試料全体の色彩に影響を及ぼすと考えられる。

第6章 総括
 試料は融剤の種類および濃度により色彩が異なり、ガラス化および結晶化の度合いと関係した。ガラス化した試料のX線吸収微細構造の分析からは、融剤の種類および濃度が鉄の価数に影響を及ぼすことが示された。また、ガラス化した試料では、マトリックス中に粒径の異なるナノ粒子が分散しており、融剤の濃度により粒径が異なることが明らかとなった。ナノ粒子については釉薬の色彩に関係する重要なテーマであるが、国内外において研究例に乏しく、さらなる検討が必要である。また本研究では、鉄釉以外の試料の色彩や形態などの基本的な性質が明らかとなったが、遷移金属のエネルギーや微細構造との関係については今後の課題である。釉薬の発色機構について解明することは、文化財の保存はもとより、伝統文化としての陶芸のさらなる発展に寄与するものであると考える。


(写真は著者の作で、本研究で作製した釉薬を使用した。)
保存科学

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猪狩 美貴