Sculpture

セメントの造形詩―疎外感とノスタルジー―

盧 之筠

高校三年生の時、ある日突然自分の周りの「もの」に対して疑問を持ちはじめ、それらが確実に何か別の意味や文脈を持っていることについて考え始めた。
 その日はいつものように自分の部屋で目覚めたが、見慣れたはずの部屋の中のすべての物に、なぜか違和感を感じた。それらは確かに自分が手に取り、自分の意志で選択したものだったが、その「選択」が今ここにいる「自分」とつながっているのか、それらの「もの」は「私」を代弁できるのかと考え始めた。
 それ以前からも、周囲の人々に見た目や身につけているものから判断されることに違和感を感じていた。「外見」や「所有物」と、自分の自己認識との間に「ずれ」を感じていたからだが、しかしその「ずれ」は、抽象的で実体のないものだった。そのため言葉に出来ないこの主客転倒の状況に、自分のアイデンティティーを「もの」に奪われたように感じたのである。
 ここから自身の存在を確かめ、自身を作り出すためには、欲しいものを手に入れるより、「自分だけのもの」を作り出すことが必要だと考えた。これが私が芸術を志したきっかけであり、「作品」を制作する動機である。
 母国台湾の国際的な立場は、政治、経済、歴史などの複雑な問題から、今日にいたるまで曖昧な、長く厳しい状況に置かれている。国家自体が主体性を失った結果、今日の台湾は、相声 舞台劇の有名な台詞にあるように、「『地理』は既に『歴史』になり、『歴史』は『小説』のようなもの」 という滑稽で情けない状態にある。
 この母国をめぐる状況と「帰属」問題への戸惑いが、自身が感じた疎外感に近似していることに気付き、改めて主観や主体性を意識することになった。そしてここから、自身の「存在」と「居場所」について再考し、これまで経験した「疎外感」をテーマに作品制作を行ってきた。
 本論文では、「疎外感」に関する社会的、心理的な分析から、自身の制作でそれを象徴するセメント素材の持つ意味と表現について考察する。
 本論文は、以下の3章によって構成される。
 第1章「セメントー疎外感とノスタルジー」では、疎外感に関する社会心理学から、芸術家という少数派が疎外感を経験しやすいこと、そして芸術家の視点から見た「現代生活における疎外感」について述べる。また、セメントが持つ「時間性」「虚無感」という二つの側面から、セメントという素材を選択した理由を述べ、疎外感とセメントの関係性について分析する。
 第2章「『彫刻』におけるセメント」では、第1、2節で彫刻の視点から、セメントの技法や特徴、石や鉄など他の素材との比較、セメントが持つ偶然性と特殊性について述べ、「連結の媒体」という概念を提示する。また「彫刻」を、「素材」「技法」を中心に解釈することへの疑問から、自身の「造形」は「素材」と「技法」が一体化したコンセプトであることを示す。そして第3節で、自身の制作でセメントが持つ四つの意味、「外来性」「ミクストメディア」「身体性」「日記とモニュメントとの間」について言及する。 
 第3章「提出作品—『空白のノスタルジー』」では、まずこれまでの制作を振り返り、作品を「彫刻」「ドローイング」「インスタレーション」の三ジャンルに分類し、それぞれの要素を抽出。そしてそれとの比較から提出作品を解説し、特にセメントが異なる制作技法により、様々な側面を持つことを確認する。
 結論では、疎外感とセメントの関わりについてまとめ、「疎外感は解消するべきなのか」という疑問について、「疎外感」を作品に変換することが、自身の存在を確認する行為であり、自身の本質を掘り出すことが、新たな表現への可能性となることを確認する。
中国の伝統的な話芸の一つ。話術や芸で客を笑わせる芸能である。日本の寄席演芸に例えると、落語 
 や漫才に当たる。
原文:「你們的地理都已經是歷史了,你們的歷史都已經是小說了。」(「那一夜,我們說相聲」表演工作
 坊、1993年)
審査委員
大巻伸嗣 佐藤道信 森淳一 林武史

盧 之筠

セメントの造形詩―疎外感とノスタルジー―


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