露出狂的なるものについて―アカデミズムと奇祭の狭間で―
岡田 洋坪
私はこれまで、「悲劇的な状況や絶望的な状況、顰蹙を買うような物事を喜劇化すること」をテーマとして作品を制作してきた。悲劇的な状況や絶望的な状況、顰蹙を買うような物事とは自分自身の経験であったり、現代社会や過去の歴史を元にしたものである。また、それらの状況や物事を喜劇化することで、トラウマや未知、恐怖心を知るため、あるいは視るためであったり、解消や克服、超克するために私は制作を行ってきた。そしてこれまで制作を続けてきた中で、いくつかのキーワードが浮かび上がってきた。
「衝撃の価値」「してはいけないこと」「視線の入れ子構造」「見えるものの境界にある見えないもの」「露出すること」「恐ろしいものが恐ろしくないものとして」などだ。
そして本論文のタイトルにある「露出狂」とはこれらのキーワードを包括的にまとめた言葉である。本来の「露出狂」という言葉から連想されるイメージは、全裸の上にトレンチコートをはおり、路上で通行人に性器を見せつけるようないわゆる破廉恥な人物を想像するだろう。しかし必ずしもそのような人物だけに「露出狂」という言葉は当てはまらないはずで、もっと広義に捉えることができるはずだと私は考えている。例えば、街中に当たり前のように鎮座する全裸の銅像や、ごく普通の美術館に展示されている裸体画に疑問を抱いたことはないだろうか?公共のスペースに突如現れる裸体に、人々は何を思うのだろうか。今や街中や美術館に溢れているこれらの「美術作品」たちは、公共スペースに展示されていることが当たり前になる以前、破廉恥な人物「露出狂」のように鑑賞者に羞恥心や恐怖を与えたり、官憲のお怒りを食らったりしていたのだ。当時これらの作品は、ただ単に物珍しさや性欲を煽動するのではなく、裸を裸としてではなく、裸体として捉えることで、裸体を美として表現することを目的として作られたという。しかしいくらそのような目的を作家が持っていたとしても、必ずしもその思いは鑑賞者には届かない。そして、公共のスペースに突如として現れる裸は、作家の目的の意に反した形で鑑賞者に届いてしまうことも多々あるはずだ。今でこそ公共における裸の「美術作品」は当たり前になっているが、それは時代や社会の変化によるものだけではなく、我々鑑賞者の思考や視線が麻痺してしまっているからではないかと私は考えている。生まれた頃から、常識として街中に全裸の銅像があったから今はもうなんとも思わない。このような態度に私は異を唱えたい。思い起こしてほしい、幼い頃、家族でTV番組を見ていたら、急に女性の裸やラブシーンが映し出されたときの気まずさを。「露出狂」は唐突に現れるのである。それは裸だけではなく、映画のとてつもなくグロテスクな場面や恐ろしい場面、TV番組や漫画やゲーム、街中の広告など、日常に溢れているのだ。そして「露出狂」はただ我々を驚かすだけではなく、トレンチコートを開いた中にそびえ立つ性器が、目に焼き付いてしまうように強烈な爪痕を残していく。その爪痕こそが「衝撃の価値」であり、往々にして時代や社会においてのタブーである「してはいけないこと」になっており、「露出狂」をめぐる視線には複雑な構造が存在している。また、「露出狂」が残した爪痕はその後、「恐ろしいものが恐ろしくないものとして」といえるような、感覚麻痺を引き起こすケースが多い。「露出狂」には多くの価値と問題点が複合的に存在していると言えるだろう。
そこで今回、前述した「露出狂」が抱える価値や問題点を分析して再構成することで、現在私の周辺で起こっていることや、過去の歴史を考察して、麻痺した感覚を取り戻し、現在の「露出狂的なるものについて」明示することで、私自身のこれまでの制作を新たに捉え直すための作品を制作することとなった。本論文は、「露出狂的なるものについて」という主題を掲げ、そのテーマを考察するための章と、作品にまつわるリサーチを元にした解説論文によって構成されている。
第1章「アカデミズムと見世物」では、まず第1章1節「日本の裸」で、日本における裸がどのように捉えられ、変化してきたのか、様々な事象や作品を元に読み解いた。主な内容は、開国前の公衆浴場文化における日本人の裸体観や、維新後に美術学校が設立され、ヌードモデルが美術教育として扱われ始めたこと、黒田清輝が日本で初めて裸体画を公開したことに対する、日本人の反応などから、裸体に対する羞恥心の変容について考察していった。また、ティツィアーノとマネ、黒田清輝とクールベの作品を比較することで、理想美という概念がケネス・クラークの掲げるヌードとネイキッドにどう影響してきたか論じた。そして、篠山紀信と荒木経惟、村上隆の作品を参照し、現代において裸体表現がどのように変化していったか、またヌードモデルと作者、鑑賞者を巡る複雑な視線について考察した。第一章一節では、主に裸を巡る表現について論じられるが、裸体表現に対しては常に、「熱い眼差し」、「冷たい視線」といったものが作品、作家、ヌードモデル、鑑賞者自身に突き刺さり、このような眼差しを誘発する作品群を露出狂的なるものを構成する一要素として挙げる。さらに、美術教育が裸体表現の普及にどのように影響していったのか考察した。
第1章2節「見世物化するアカデミズム」では、美術教育におけるヌードデッサンのように、対象を知ること、理解することに重きをおいて行われている、医学における解剖学を中心に参照した。まずは、医学の成り立ちから順に追っていき、医学において解剖学が果たした役割を明らかにしていった。また、解剖学書の古典であり歴史的大著である、ヴェサリウスの『ファブリカ』を巡る物語を読み解くことで、解剖学と美術の関係性について考察した。そして、アカデミズムと見世物という、一見矛盾しているかのように見えるが、実は交じり合っている関係性に着目し、教育という建前を前提に開催された『人体の不思議展』を参照しながら、映画の中でも見世物性が極度に強いエクスプロイテーション映画や、フェイク・ドキュメンタリーである『宇宙人解剖フィルム』、大伴昌司の『怪獣解剖図鑑』を読み解きながら、隠された裏側や側面を暴き、露出することでものに意味を与えるという、露出狂的な表現の二元的な側面の一つを構成する要素について考察した。
第2章「伝統と見世物」では、日本の奇祭を中心に露出狂的な表現について論じた。第2章1節「日本の奇祭」ではまず、奇祭を奇祭たらしめる要素として、性、暴力、醜を仮説とし、様々な奇祭を参照しながら、何をもって奇祭とするのか、また奇祭のもつネガティブな要素がもたらす価値や、性、暴力、醜の根底にある恐怖について考察した。そして、祭りにおける裸の意味について、日常における秩序や規範を転換する、コード・リバーサルという概念を用いながら、現代において時代や社会背景とともに、祭りの意味を変化させざるを得ないという状況で、裸の意味はどのように変化していったのかについて論じた。
第2章2節「美術における奇祭」では、ゼロ次元、ヘルマン・ニッチュ、工藤哲巳の作品を参照しながら奇祭と比較し、奇祭のもつ暴力性が、加虐的、被虐的に変化していく過程で、批判的な「冷たい視線」や、カタルシスに期待する「熱い眼差し」が鑑賞者の中に生まれることで、恐怖から疑いの目が生まれていく過程について論じた。さらに、奇祭のもつネガティブな要素がポジティブに転換されていく構造や、工藤哲巳のパフォーマンスにおける不能な暴力性について考察した。そして、奇祭の要素を内包する映画である、『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』と、『世界残酷物語』を参照し、奇祭の諸要素と、見世物的な表現が混じり合うことで生まれる効果について考察し、疑いの目を鑑賞者に与える、「熱い眼差し」や「冷たい視線」を誘発する手段を探っていった。
第3章「作品解説」では自作品である、『×××の解剖―Anatomy of Terror―』制作にあたりリサーチしたいくつかの事象や作品を元に解説していく。まず、各原子力発電所に併設されているPR施設である原発PR館について、東海村の『東海テラパーク』、『原子力科学館』を参照し、安全をPRし、安心を与えるという広報施設の基本戦略や、現在ではコントロール不能に陥ったリスクアセスメントが、社会に安心を与えることができなくなった背景について考察した。また、日本という災害の多い土地柄、古くから日本各地に点在する、災害後生き残った松の木が伝承として現在まで伝わっている背景を元に、ビキニ環礁の水爆実験で被爆した第五福竜丸事件を受けて制作された『ゴジラ』から、圧倒的な力に宿る象徴性や、時代とともに意味を変化させてきたゴジラの変遷について考察した。そして、恐怖を解剖するという行為について、第2次世界対戦時下に起きた、米兵捕虜を生体解剖するという九大生体解剖事件について、事件の詳細から、特殊な状況下において、解剖するという行為の意味が変化していくことや、解剖行為の潜在的な異常性について考察した。
まとめでは、アカデミズムと奇祭において、異常なものが習慣化することについて、「場」における秩序や規範が、外部の理解を得るために教育や伝承がその役割を担っているということや、クールベ、篠山紀信、荒木経惟、ゼロ次元、ニッチュ、工藤哲巳等の表現から、理想美を拒否する方法と、理想美を拒否することで見えるものについていくつかの仮説を元に考察した。そして最後に、露出狂的な表現が、対象そのものや、対象がもつ建前、対象を包み隠す幻想を露わにすることで、「確信をもてなくすること」という意味を剥奪する行為と、「確信をもてるようにすること」という意味を与える行為という、二元的な要素を持つとして結論に結びつけた。
「衝撃の価値」「してはいけないこと」「視線の入れ子構造」「見えるものの境界にある見えないもの」「露出すること」「恐ろしいものが恐ろしくないものとして」などだ。
そして本論文のタイトルにある「露出狂」とはこれらのキーワードを包括的にまとめた言葉である。本来の「露出狂」という言葉から連想されるイメージは、全裸の上にトレンチコートをはおり、路上で通行人に性器を見せつけるようないわゆる破廉恥な人物を想像するだろう。しかし必ずしもそのような人物だけに「露出狂」という言葉は当てはまらないはずで、もっと広義に捉えることができるはずだと私は考えている。例えば、街中に当たり前のように鎮座する全裸の銅像や、ごく普通の美術館に展示されている裸体画に疑問を抱いたことはないだろうか?公共のスペースに突如現れる裸体に、人々は何を思うのだろうか。今や街中や美術館に溢れているこれらの「美術作品」たちは、公共スペースに展示されていることが当たり前になる以前、破廉恥な人物「露出狂」のように鑑賞者に羞恥心や恐怖を与えたり、官憲のお怒りを食らったりしていたのだ。当時これらの作品は、ただ単に物珍しさや性欲を煽動するのではなく、裸を裸としてではなく、裸体として捉えることで、裸体を美として表現することを目的として作られたという。しかしいくらそのような目的を作家が持っていたとしても、必ずしもその思いは鑑賞者には届かない。そして、公共のスペースに突如として現れる裸は、作家の目的の意に反した形で鑑賞者に届いてしまうことも多々あるはずだ。今でこそ公共における裸の「美術作品」は当たり前になっているが、それは時代や社会の変化によるものだけではなく、我々鑑賞者の思考や視線が麻痺してしまっているからではないかと私は考えている。生まれた頃から、常識として街中に全裸の銅像があったから今はもうなんとも思わない。このような態度に私は異を唱えたい。思い起こしてほしい、幼い頃、家族でTV番組を見ていたら、急に女性の裸やラブシーンが映し出されたときの気まずさを。「露出狂」は唐突に現れるのである。それは裸だけではなく、映画のとてつもなくグロテスクな場面や恐ろしい場面、TV番組や漫画やゲーム、街中の広告など、日常に溢れているのだ。そして「露出狂」はただ我々を驚かすだけではなく、トレンチコートを開いた中にそびえ立つ性器が、目に焼き付いてしまうように強烈な爪痕を残していく。その爪痕こそが「衝撃の価値」であり、往々にして時代や社会においてのタブーである「してはいけないこと」になっており、「露出狂」をめぐる視線には複雑な構造が存在している。また、「露出狂」が残した爪痕はその後、「恐ろしいものが恐ろしくないものとして」といえるような、感覚麻痺を引き起こすケースが多い。「露出狂」には多くの価値と問題点が複合的に存在していると言えるだろう。
そこで今回、前述した「露出狂」が抱える価値や問題点を分析して再構成することで、現在私の周辺で起こっていることや、過去の歴史を考察して、麻痺した感覚を取り戻し、現在の「露出狂的なるものについて」明示することで、私自身のこれまでの制作を新たに捉え直すための作品を制作することとなった。本論文は、「露出狂的なるものについて」という主題を掲げ、そのテーマを考察するための章と、作品にまつわるリサーチを元にした解説論文によって構成されている。
第1章「アカデミズムと見世物」では、まず第1章1節「日本の裸」で、日本における裸がどのように捉えられ、変化してきたのか、様々な事象や作品を元に読み解いた。主な内容は、開国前の公衆浴場文化における日本人の裸体観や、維新後に美術学校が設立され、ヌードモデルが美術教育として扱われ始めたこと、黒田清輝が日本で初めて裸体画を公開したことに対する、日本人の反応などから、裸体に対する羞恥心の変容について考察していった。また、ティツィアーノとマネ、黒田清輝とクールベの作品を比較することで、理想美という概念がケネス・クラークの掲げるヌードとネイキッドにどう影響してきたか論じた。そして、篠山紀信と荒木経惟、村上隆の作品を参照し、現代において裸体表現がどのように変化していったか、またヌードモデルと作者、鑑賞者を巡る複雑な視線について考察した。第一章一節では、主に裸を巡る表現について論じられるが、裸体表現に対しては常に、「熱い眼差し」、「冷たい視線」といったものが作品、作家、ヌードモデル、鑑賞者自身に突き刺さり、このような眼差しを誘発する作品群を露出狂的なるものを構成する一要素として挙げる。さらに、美術教育が裸体表現の普及にどのように影響していったのか考察した。
第1章2節「見世物化するアカデミズム」では、美術教育におけるヌードデッサンのように、対象を知ること、理解することに重きをおいて行われている、医学における解剖学を中心に参照した。まずは、医学の成り立ちから順に追っていき、医学において解剖学が果たした役割を明らかにしていった。また、解剖学書の古典であり歴史的大著である、ヴェサリウスの『ファブリカ』を巡る物語を読み解くことで、解剖学と美術の関係性について考察した。そして、アカデミズムと見世物という、一見矛盾しているかのように見えるが、実は交じり合っている関係性に着目し、教育という建前を前提に開催された『人体の不思議展』を参照しながら、映画の中でも見世物性が極度に強いエクスプロイテーション映画や、フェイク・ドキュメンタリーである『宇宙人解剖フィルム』、大伴昌司の『怪獣解剖図鑑』を読み解きながら、隠された裏側や側面を暴き、露出することでものに意味を与えるという、露出狂的な表現の二元的な側面の一つを構成する要素について考察した。
第2章「伝統と見世物」では、日本の奇祭を中心に露出狂的な表現について論じた。第2章1節「日本の奇祭」ではまず、奇祭を奇祭たらしめる要素として、性、暴力、醜を仮説とし、様々な奇祭を参照しながら、何をもって奇祭とするのか、また奇祭のもつネガティブな要素がもたらす価値や、性、暴力、醜の根底にある恐怖について考察した。そして、祭りにおける裸の意味について、日常における秩序や規範を転換する、コード・リバーサルという概念を用いながら、現代において時代や社会背景とともに、祭りの意味を変化させざるを得ないという状況で、裸の意味はどのように変化していったのかについて論じた。
第2章2節「美術における奇祭」では、ゼロ次元、ヘルマン・ニッチュ、工藤哲巳の作品を参照しながら奇祭と比較し、奇祭のもつ暴力性が、加虐的、被虐的に変化していく過程で、批判的な「冷たい視線」や、カタルシスに期待する「熱い眼差し」が鑑賞者の中に生まれることで、恐怖から疑いの目が生まれていく過程について論じた。さらに、奇祭のもつネガティブな要素がポジティブに転換されていく構造や、工藤哲巳のパフォーマンスにおける不能な暴力性について考察した。そして、奇祭の要素を内包する映画である、『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』と、『世界残酷物語』を参照し、奇祭の諸要素と、見世物的な表現が混じり合うことで生まれる効果について考察し、疑いの目を鑑賞者に与える、「熱い眼差し」や「冷たい視線」を誘発する手段を探っていった。
第3章「作品解説」では自作品である、『×××の解剖―Anatomy of Terror―』制作にあたりリサーチしたいくつかの事象や作品を元に解説していく。まず、各原子力発電所に併設されているPR施設である原発PR館について、東海村の『東海テラパーク』、『原子力科学館』を参照し、安全をPRし、安心を与えるという広報施設の基本戦略や、現在ではコントロール不能に陥ったリスクアセスメントが、社会に安心を与えることができなくなった背景について考察した。また、日本という災害の多い土地柄、古くから日本各地に点在する、災害後生き残った松の木が伝承として現在まで伝わっている背景を元に、ビキニ環礁の水爆実験で被爆した第五福竜丸事件を受けて制作された『ゴジラ』から、圧倒的な力に宿る象徴性や、時代とともに意味を変化させてきたゴジラの変遷について考察した。そして、恐怖を解剖するという行為について、第2次世界対戦時下に起きた、米兵捕虜を生体解剖するという九大生体解剖事件について、事件の詳細から、特殊な状況下において、解剖するという行為の意味が変化していくことや、解剖行為の潜在的な異常性について考察した。
まとめでは、アカデミズムと奇祭において、異常なものが習慣化することについて、「場」における秩序や規範が、外部の理解を得るために教育や伝承がその役割を担っているということや、クールベ、篠山紀信、荒木経惟、ゼロ次元、ニッチュ、工藤哲巳等の表現から、理想美を拒否する方法と、理想美を拒否することで見えるものについていくつかの仮説を元に考察した。そして最後に、露出狂的な表現が、対象そのものや、対象がもつ建前、対象を包み隠す幻想を露わにすることで、「確信をもてなくすること」という意味を剥奪する行為と、「確信をもてるようにすること」という意味を与える行為という、二元的な要素を持つとして結論に結びつけた。
- 審査委員
- 小谷元彦 伊藤俊治 鈴木理策 佐藤道信
露出狂的なるものについて―アカデミズムと奇祭の狭間で―
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