自意識とポートレート
円井 テトラ
本論文は様々な属性や身体性から解放された「ゼロの自分」としての自意識をどのようにして写し取るかを中心に制作を行ってきた筆者の作品における、自意識の形成とセルフポートレートという手法との相関関係を探るものである。論文は5章構成になっており、以下にそれぞれの章の概要を述べる。
1章では他者との関係や環境の中で揺れ動く自意識の問題を捉えるため平野啓一郎の提唱した分人主義の概念を引き、それに影響を受けて筆者が設定した先天的自意識と後天的自意識という自意識の2つの形態について考察する。先天的自意識が仮に「唯一無二であるが、ゼロの状態である魂のようなもの」とするなら、後天的自意識は、先天的自意識という種(タネ)に、環境や他人による影響、社会的属性といったものを与えて生まれた自意識であり、この後天的自意識が平野啓一郎の提唱する「分人」と見なさうるだろう。対象とする自作品は写真集『ポートレート・ポートレート』とその空間インスタレーションを中心に『セトテトラの記憶採集録』や『あなたとわたしと世界』なども参照する。表現手段は様々であるが、筆者の一貫したテーマは自意識を写し取ることにあることをこの章で確認したい。
2章では、現代におけるセルフポートレートの普及とその形態の進化に言及し、セルフポートレートが個人の自己イメージやアイデンティティに与える影響や、それを外部に表明・拡散していく意味を考察していく。証明写真から携帯の自撮りへと技術が進化するに従い、「より理想的な自己を写真として表現する技術」としてセルフポートレートは用いられるようになった。セルフポートレートは個人的なツールとなり、その技術の向上や広がりと同調するように筆者自身の自己イメージも形成され、しだいに身体を離れ、他者に向けて広がり、無数の形に変容してきた。自作品におけるセルフポートレートは、筆者自身の過去や現在において生まれた浮遊するアイデンティティを救出するため、無数の後天的自意識を定着させる役割を果たすと同時に、さらにそこから先天的自意識を見出し抽出するための装置である。その上で自作品を参照し、自意識を写し取ることを中心としてきた筆者の制作とセルフポートレートとの関係を明らかにする。
3章はこれまでに行ってきた作品制作の経緯と軌跡を具体的に概観することで一貫して探求してきたテーマを再確認し、3章以降の議論への出発点として設定した。
4章では現代における多様な性のあり方を論じ、性を言語化・概念化して語ることによる問題点を性別主義の観点から考える。その問題点を解消するため二者間の関係の中で浮かび上がるものとしての性の捉え方について考察する。写真を用いた表現により筆者と関わりの強い人物と互いに関係をつくりながらセルフポートレートを撮っていくことで、微細な性の曖昧さや可変性について再現・考察した『あなたとわたし』を中心とした自作品にも言及し、身体と性の関わりについて明らかにする。他者との関係を包括する性はその中で揺れ動く自意識との関係において重要な要素と考えるからである。
終章では4章までの議論を受け、最新作であり、博士提出作品である『十二単』を考察の対象とする。『十二単』は自意識を写し取ることによるアイデンティティの救済という問題意識に対しての現時点での解答であり、作品制作の中で属性や身体性以前の「ゼロの自分」として先天的自意識を自立させることができたと考えている。
本論文は「ゼロの自分」としての自意識を写し取るためにこれまで行ってきた思索や表現手法の集大成であり、その経過をたどってゆくと、「他者との関係性としての性」から「揺れ動く自意識としての後天的自意識」へ、さらに「それらの種(タネ)となるものとしての先天的自意識」へとより視点が内面化していったことが明確となった。セルフポートレートの手法を用いて属性や身体性以前の自分を認め、自己のアイデンティティを救出するひとつの方向を指し示すことができたように思う。
1章では他者との関係や環境の中で揺れ動く自意識の問題を捉えるため平野啓一郎の提唱した分人主義の概念を引き、それに影響を受けて筆者が設定した先天的自意識と後天的自意識という自意識の2つの形態について考察する。先天的自意識が仮に「唯一無二であるが、ゼロの状態である魂のようなもの」とするなら、後天的自意識は、先天的自意識という種(タネ)に、環境や他人による影響、社会的属性といったものを与えて生まれた自意識であり、この後天的自意識が平野啓一郎の提唱する「分人」と見なさうるだろう。対象とする自作品は写真集『ポートレート・ポートレート』とその空間インスタレーションを中心に『セトテトラの記憶採集録』や『あなたとわたしと世界』なども参照する。表現手段は様々であるが、筆者の一貫したテーマは自意識を写し取ることにあることをこの章で確認したい。
2章では、現代におけるセルフポートレートの普及とその形態の進化に言及し、セルフポートレートが個人の自己イメージやアイデンティティに与える影響や、それを外部に表明・拡散していく意味を考察していく。証明写真から携帯の自撮りへと技術が進化するに従い、「より理想的な自己を写真として表現する技術」としてセルフポートレートは用いられるようになった。セルフポートレートは個人的なツールとなり、その技術の向上や広がりと同調するように筆者自身の自己イメージも形成され、しだいに身体を離れ、他者に向けて広がり、無数の形に変容してきた。自作品におけるセルフポートレートは、筆者自身の過去や現在において生まれた浮遊するアイデンティティを救出するため、無数の後天的自意識を定着させる役割を果たすと同時に、さらにそこから先天的自意識を見出し抽出するための装置である。その上で自作品を参照し、自意識を写し取ることを中心としてきた筆者の制作とセルフポートレートとの関係を明らかにする。
3章はこれまでに行ってきた作品制作の経緯と軌跡を具体的に概観することで一貫して探求してきたテーマを再確認し、3章以降の議論への出発点として設定した。
4章では現代における多様な性のあり方を論じ、性を言語化・概念化して語ることによる問題点を性別主義の観点から考える。その問題点を解消するため二者間の関係の中で浮かび上がるものとしての性の捉え方について考察する。写真を用いた表現により筆者と関わりの強い人物と互いに関係をつくりながらセルフポートレートを撮っていくことで、微細な性の曖昧さや可変性について再現・考察した『あなたとわたし』を中心とした自作品にも言及し、身体と性の関わりについて明らかにする。他者との関係を包括する性はその中で揺れ動く自意識との関係において重要な要素と考えるからである。
終章では4章までの議論を受け、最新作であり、博士提出作品である『十二単』を考察の対象とする。『十二単』は自意識を写し取ることによるアイデンティティの救済という問題意識に対しての現時点での解答であり、作品制作の中で属性や身体性以前の「ゼロの自分」として先天的自意識を自立させることができたと考えている。
本論文は「ゼロの自分」としての自意識を写し取るためにこれまで行ってきた思索や表現手法の集大成であり、その経過をたどってゆくと、「他者との関係性としての性」から「揺れ動く自意識としての後天的自意識」へ、さらに「それらの種(タネ)となるものとしての先天的自意識」へとより視点が内面化していったことが明確となった。セルフポートレートの手法を用いて属性や身体性以前の自分を認め、自己のアイデンティティを救出するひとつの方向を指し示すことができたように思う。
- 審査委員
- 伊藤俊治 鈴木理策 八谷和彦 佐々木成明
自意識とポートレート
Inter-Media Art