Oil Painting
Days ―持続変化と不変項
吉田 晋之介
本論は画家である筆者が画家の制作心得として焦点を当てている「持続変化と不変項」を主題として設定し、筆者の思考体系に最も影響を与えた生態心理学の基底的概念からの示唆を通して考察を試みる、現代における絵画の制作論である。
画家が論文を書く。画家が論理的な手法を用いて自らの制作動機を記述する、このことにはどのような意義があるのだろうか。画家にとっての制作論とはどうあるべきであろうか。
言霊(ことだま)とは、一般的には日本において言葉に宿ると信じられてきた霊的なカのことである。声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。
有史以来、美術と文学が文化事象として相互に交流するものであってきたことは疑いのないことであり、絵と文章とは互いに密接な関わりをもって影響し合っている。
言うまでもなく、画家にとっての文章とは自作にとって有益であるべきである。画家自身が文章を書いたり語ったりすることによってそれ以後の自作の制作に際しての発想の自由度が規定されてしまうことを私は避けたいと思うのだが数多の画家たちはどう考えるのだろうか。少なくとも画家が使う言葉が、その画家の未来の絵にとって不吉な呪縛としての言霊のようであってはならないはずだと考える。
「これまでの制作の方法論を強固に裏付けていくことは、今後の制作の自由度を抑止してしまうことなのではないか」。本論の主題はこうした素朴な疑問から生まれた。したがって、今までの制作や制作動機についてを纏めたこれまでの作品の制作論ではなく、これから死ぬまでの永い間の制作にも適用できるような、持続的な制作のための制作論の成立を目指した。
語った言葉が不吉な言霊となって今後の制作に悪影響を及ぼさないために、そして今後何が起こるかわからない世界の変化の中で制作をし続けるために、「これからの制作論」を示すことが私にとって意義があると思えるのである。
「今日の非常識は明日の常識となる」。この現代のスピード感の中で「持続可能な」制作動機を探ること。自らの綴った論説に縛られることのない、自由な制作のための制作論として成立させること。そして矛盾するようだが、それらを論説として記述すること。
これが本論の目的である。
本論文は、全3章と結論という構成である。
第1章では、自身の制作に大きな変化をもたらした東日本大震災の記憶を描写した。
「体感できるもの」ではまず、自らの身を持って感じた大自然の脅威としての地震の記憶と、メディアから伝えられた現実の風景と、映画の中での記憶が重なり合う体験を詳細に記述した。「体感できないもの」では、福島第一原子力発電所の事故を契機に、これまでの自分を取り巻く環境の最も身近な存在であるはずの「空気と水」の認識が変わったことを論じた。
「なぜ生態心理学か」では、震災を目の当たりにしたことで既成概念の瓦解を経験し、そしてそのことによる現実の別の側面への興味の広がりが、「アフオーダンス理論」の実感へと繋がった経緯を、震災以前から以後へ変遷していった自身の制作態度と絡めて述べた。
第2章「生態心理学からの示唆を受けて」では、生態心理学に関する書籍から、絵画制作や本論文の主題に対して重要な示唆となるものを紹介した。そのなかでも「不変項」は非常に重要な概念である。
第3章「制作論」では、まず本論における画家と絵画の定義づけをし、そのうえで「描く理由」を、そして「描く理由のために環境を考察」する理由を述べた。そして「環境考」へと繋がる。そこでは現代画家の問題となるであろう環境を「現実風景」「インターネット」 「他者」「絵画史」「身体」 「鏡としての自作」とし、それぞれ詳細に論じていく。
結論として本論文があきらかにすることは、画家はその置かれている周りの環境によって持続的に変化するべきである、ということである。
本論は制作論として、画家は自身の「本質/本性/個性/不変項」を自ら設定したり、語ったり、それを拠り所に制作をするべきではないということを明かす。画家の不変項とは、画家が変化するからこそ見えてくるものであり、その変化は予測不能な環境に準じ、そしてその変化は永遠に持続するものであるからである。
絵画はそうして描かれ続けることによって、並べられることによって、多面鏡として画家本人の不変項を映し出すのである。
画家が論文を書く。画家が論理的な手法を用いて自らの制作動機を記述する、このことにはどのような意義があるのだろうか。画家にとっての制作論とはどうあるべきであろうか。
言霊(ことだま)とは、一般的には日本において言葉に宿ると信じられてきた霊的なカのことである。声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。
有史以来、美術と文学が文化事象として相互に交流するものであってきたことは疑いのないことであり、絵と文章とは互いに密接な関わりをもって影響し合っている。
言うまでもなく、画家にとっての文章とは自作にとって有益であるべきである。画家自身が文章を書いたり語ったりすることによってそれ以後の自作の制作に際しての発想の自由度が規定されてしまうことを私は避けたいと思うのだが数多の画家たちはどう考えるのだろうか。少なくとも画家が使う言葉が、その画家の未来の絵にとって不吉な呪縛としての言霊のようであってはならないはずだと考える。
「これまでの制作の方法論を強固に裏付けていくことは、今後の制作の自由度を抑止してしまうことなのではないか」。本論の主題はこうした素朴な疑問から生まれた。したがって、今までの制作や制作動機についてを纏めたこれまでの作品の制作論ではなく、これから死ぬまでの永い間の制作にも適用できるような、持続的な制作のための制作論の成立を目指した。
語った言葉が不吉な言霊となって今後の制作に悪影響を及ぼさないために、そして今後何が起こるかわからない世界の変化の中で制作をし続けるために、「これからの制作論」を示すことが私にとって意義があると思えるのである。
「今日の非常識は明日の常識となる」。この現代のスピード感の中で「持続可能な」制作動機を探ること。自らの綴った論説に縛られることのない、自由な制作のための制作論として成立させること。そして矛盾するようだが、それらを論説として記述すること。
これが本論の目的である。
本論文は、全3章と結論という構成である。
第1章では、自身の制作に大きな変化をもたらした東日本大震災の記憶を描写した。
「体感できるもの」ではまず、自らの身を持って感じた大自然の脅威としての地震の記憶と、メディアから伝えられた現実の風景と、映画の中での記憶が重なり合う体験を詳細に記述した。「体感できないもの」では、福島第一原子力発電所の事故を契機に、これまでの自分を取り巻く環境の最も身近な存在であるはずの「空気と水」の認識が変わったことを論じた。
「なぜ生態心理学か」では、震災を目の当たりにしたことで既成概念の瓦解を経験し、そしてそのことによる現実の別の側面への興味の広がりが、「アフオーダンス理論」の実感へと繋がった経緯を、震災以前から以後へ変遷していった自身の制作態度と絡めて述べた。
第2章「生態心理学からの示唆を受けて」では、生態心理学に関する書籍から、絵画制作や本論文の主題に対して重要な示唆となるものを紹介した。そのなかでも「不変項」は非常に重要な概念である。
第3章「制作論」では、まず本論における画家と絵画の定義づけをし、そのうえで「描く理由」を、そして「描く理由のために環境を考察」する理由を述べた。そして「環境考」へと繋がる。そこでは現代画家の問題となるであろう環境を「現実風景」「インターネット」 「他者」「絵画史」「身体」 「鏡としての自作」とし、それぞれ詳細に論じていく。
結論として本論文があきらかにすることは、画家はその置かれている周りの環境によって持続的に変化するべきである、ということである。
本論は制作論として、画家は自身の「本質/本性/個性/不変項」を自ら設定したり、語ったり、それを拠り所に制作をするべきではないということを明かす。画家の不変項とは、画家が変化するからこそ見えてくるものであり、その変化は予測不能な環境に準じ、そしてその変化は永遠に持続するものであるからである。
絵画はそうして描かれ続けることによって、並べられることによって、多面鏡として画家本人の不変項を映し出すのである。
審査委員
秋本貴透 佐藤道信 小林正人 佐藤一郎 OJUN
秋本貴透 佐藤道信 小林正人 佐藤一郎 OJUN