Oil Painting
絵画においてイマージュとは何かバシュラールの物質的想像力からみる絵画
伊勢 周平
(論文内容の論旨)
本論はガストン・バシュラールおける物質的想像力の概念から導き出される画家と鑑賞者の「絵画的イマージュ」(絵画を描くことの心象)が絵画作品と人にどのように影響するのかについて考察であり、またその両者としての主体である私の自作論である。
絵画という視覚芸術において、鑑賞をとおして求められる芸術の意義とは芸術的コンセプトに代表されるような意識の発展として捉えられてきた。しかし画家において絵画は、意識の発展という側面では捉えきれない、物質と内的主観性から得られる実体感が常に伴う表現手段である。これは
描かれたものに対する弁証法ではなく、画家の描くことの想像力が絵画の実体として現れてくるといえるであろう。
第1章では、画家と鑑賞者の存在に触れながら、その両者から抽出される描くことの実体を「絵画そのもの」とした。アンリ・ベルクソンのイマージュ論をとおして「絵画そのもの」における物質がイマージュそのものであることを確認する。その上で、画家と鑑賞者は便宜上絵画を仲立ちとした対置関係であるとする観念を捨て、絵画的イマージュ(描くことのイマージュ)において両者は内的主観性から得られる想像力を絵画に照射している点に親和性が認められるので、ともに絵画の発展に参与する存在であることが導き出される。
第2章では、バシュラールの『水と夢』における想像力概念を絵画に援用するかたちで第1章の絵画的イマージュを整理し、形体的想像力が絵画の描かれたものに向けられた想像力、物質的想像力が絵画を描くことに向けられた想像力であることを導き出す。その過程でパシュラールの想像力概念が基本的に文学、とりわけ詩に向けられたものであることから、物質的想像力が絵画に転用可能かを考察するために「絵画そのもの」における「絵画」とは何かについて考察が加えられる。
第3章では、アンリ・マティス、フランシス・ベイコン、エル・グレコの絵画における考察から、具体的に画家の絵画的イマージュとはどのようなものかを明らかにする。2章て物質的想像力に含まれる文化的コンプレックス(イマージュにおける非反省的態度)が想像力の断絶を招くことに触れたのだが、本章ではパシュラールの想像力概念において人間の文化が「接木」という概念装置を与えられることで断続的に発展することに着目し、画家がその役割を担う存在であるとする。また接木の母体として機能する画家を絵画的父親とし、その存在に触れるとともに、画家は絵画の物質的想像力をアップデートする媒介であるとする。
第4章は、第1章で述べられたような絵画的イマージュが絵画鑑賞をとおして鑑賞者にどのように現前し、かつ絵画に照射するのかについての考察である。鑑賞者は画家とは異なり直接的に制作の現場に立ち会っていないわけだが、今を生きる精神の存在として絵画的イマージュをとらえ再び、今の精神にリリースするという働きが認められるだろう。
第5章では、これまでの考察を踏まえた自作論を述べる。具体的に2015年7月~8月に
Takuro Someya Contemporary Art(東京)で催された個展『賽のー振り』に出展された「賽のー振り」、「延々と」、「手と足」、「険しい山」における制作と全体の展示構想をつぶさにみていく。
結論は、第3章と第4章で得られた画家と鑑賞者における絵画的イマージュのサイクルを複合的にとらえ、それに伴う「接木」の概念装置の存在から、絵画的イマージュの想像力がどのように次代にアップデートされ、また継承されていくのかについて述べる。この結果から得られるものとして人間の文化的しるしが意識の発展だけではなく、イマージュを歪形しながら繰り返される想像力の発展としても捉えられることを証明する。
本論はガストン・バシュラールおける物質的想像力の概念から導き出される画家と鑑賞者の「絵画的イマージュ」(絵画を描くことの心象)が絵画作品と人にどのように影響するのかについて考察であり、またその両者としての主体である私の自作論である。
絵画という視覚芸術において、鑑賞をとおして求められる芸術の意義とは芸術的コンセプトに代表されるような意識の発展として捉えられてきた。しかし画家において絵画は、意識の発展という側面では捉えきれない、物質と内的主観性から得られる実体感が常に伴う表現手段である。これは
描かれたものに対する弁証法ではなく、画家の描くことの想像力が絵画の実体として現れてくるといえるであろう。
第1章では、画家と鑑賞者の存在に触れながら、その両者から抽出される描くことの実体を「絵画そのもの」とした。アンリ・ベルクソンのイマージュ論をとおして「絵画そのもの」における物質がイマージュそのものであることを確認する。その上で、画家と鑑賞者は便宜上絵画を仲立ちとした対置関係であるとする観念を捨て、絵画的イマージュ(描くことのイマージュ)において両者は内的主観性から得られる想像力を絵画に照射している点に親和性が認められるので、ともに絵画の発展に参与する存在であることが導き出される。
第2章では、バシュラールの『水と夢』における想像力概念を絵画に援用するかたちで第1章の絵画的イマージュを整理し、形体的想像力が絵画の描かれたものに向けられた想像力、物質的想像力が絵画を描くことに向けられた想像力であることを導き出す。その過程でパシュラールの想像力概念が基本的に文学、とりわけ詩に向けられたものであることから、物質的想像力が絵画に転用可能かを考察するために「絵画そのもの」における「絵画」とは何かについて考察が加えられる。
第3章では、アンリ・マティス、フランシス・ベイコン、エル・グレコの絵画における考察から、具体的に画家の絵画的イマージュとはどのようなものかを明らかにする。2章て物質的想像力に含まれる文化的コンプレックス(イマージュにおける非反省的態度)が想像力の断絶を招くことに触れたのだが、本章ではパシュラールの想像力概念において人間の文化が「接木」という概念装置を与えられることで断続的に発展することに着目し、画家がその役割を担う存在であるとする。また接木の母体として機能する画家を絵画的父親とし、その存在に触れるとともに、画家は絵画の物質的想像力をアップデートする媒介であるとする。
第4章は、第1章で述べられたような絵画的イマージュが絵画鑑賞をとおして鑑賞者にどのように現前し、かつ絵画に照射するのかについての考察である。鑑賞者は画家とは異なり直接的に制作の現場に立ち会っていないわけだが、今を生きる精神の存在として絵画的イマージュをとらえ再び、今の精神にリリースするという働きが認められるだろう。
第5章では、これまでの考察を踏まえた自作論を述べる。具体的に2015年7月~8月に
Takuro Someya Contemporary Art(東京)で催された個展『賽のー振り』に出展された「賽のー振り」、「延々と」、「手と足」、「険しい山」における制作と全体の展示構想をつぶさにみていく。
結論は、第3章と第4章で得られた画家と鑑賞者における絵画的イマージュのサイクルを複合的にとらえ、それに伴う「接木」の概念装置の存在から、絵画的イマージュの想像力がどのように次代にアップデートされ、また継承されていくのかについて述べる。この結果から得られるものとして人間の文化的しるしが意識の発展だけではなく、イマージュを歪形しながら繰り返される想像力の発展としても捉えられることを証明する。
審査委員
齋藤芽生 川瀬智之 OJUN 佐藤一郎 秋本貴透
齋藤芽生 川瀬智之 OJUN 佐藤一郎 秋本貴透