Oil Painting
未知なるものとの対話の枠組としてのアート
ハッジス アキレス ラバルカ ライムンド
序論: 恒常的未完成:実体化した思考としてのドローイング
近代の美術鑑賞においては、あらゆる類の未完成作品や試作品が高く評価される。こうした関心は、後により複雑な完成品としてなるものの前身や、逸失あるいは破損した大作の一部を成すものに限らない。多くの場合、それら未完成作品は(その脆さや断片性にも関わらず)独立した作品として扱われ、何世紀にも渡り熱心な美術鑑賞者達を魅惑している。アーティストを制作に向かわせる動機、制作過程における完成のビジョン。そして作品と観客の間に生じる関係性の間には隔たりがあるが、そのことを十分意識して制作された作品は観客の前に現前することでこの隔たりを生じさせる諸要素の開示と再定義を可能にする。
第1章:話者について
・自己と他者の境界
人間、そして同様の自律したシステム・オーガニズム(さらにはその構成要素)全般を大枠で定義するのは、他者との相互関係における役割と立ち位置である。したがって、自我の輪郭は自己意識の領域/境界面と等しくなる。このシステムは感覚[的に理解される世界]とは峻別された空間を貫いており、それゆえに、私たちがそこにどのように接続することができるかについて無自覚な限り、そのシステムは自我にとっては異質なものとして知覚される。
・変化と転移
上で述べたことの帰結として、文脈や属性の知覚(大きさ、形、位置、役割)に生じる転移は、知覚された現象や対象の内在的自我の再査定を引き起こす。
・「間」とそれを満たすもの
定義に囚われることなく自由に動き回る要素が潜伏している。それを「未知なるもの」と呼ぼう。この「未知なるもの」を直接体験することは不可能だが、その介在によって形作られる周囲のすべてに注意を払うことで接近を試みることは可能だと考えられる。
空・無
仏教と道教の文献を中心として虚無と不在を扱う概念について考察する。この文脈において「無」は、意識に固有の限界を超えた行為を可能にする力ないし存在として理解される。この思想は、「空(梵=シューニャター)」という周囲の環境の意味の変化の中で私たちの経験の真の性質を常に再査定することを求める教義に基づいて洗練されてきたものである。
ドゥエンデ(悪魔)
フラメンコは即興性に深く関わる西洋の伝統的表現形式のひとつであり、そこで用いられるドゥエンデ(悪魔)という概念は表現の形式そのものとパフォーマー自身の個性を超えて、パフォーマンスにある種の強度が表出することを意味している。その最も簡潔かつ古典的な説明にフェデリコ・ガルシア・ロルカのエッセイ「ドゥエンデの理論と役割」がある。
グリッチ―機械の幽霊
機械は特定のタスクを遂行するために設計・構築され、その設計から外れるあらゆる挙動は伝統的な工学の観点では望ましくないものとして見なされる。しかし、アートの観点から機械を見れば、こうした予期せぬ挙動はエピジェネティック[=非DNA的環境由来の遺伝的変化]なものであり、内部から生じた新たなプロセスの誕生である。それは[未知なるもの]がシステム内部に染みいり、そのシステムを変化させ未踏の領域へと向かわれる望ましいできごととして捉えることができる。
・音楽の統語論の外にある音
本章の前節み見られるように、芸術の要素は、作品が存在する見取り図の内部におけるキャラクターや声として見なすことができる。芸術の要素はまた、定義や精査を超えていることがその主要な特徴のひとつであるため、継続的に示唆されながらも決して明確には定義されない要素としての「未知なる物」を巡って巡回するものとしても見ることができる。
第2章:背景と方法
複数性を有した枠組の中でのみ可能となる一定の物事があり、[意図せぬ]遭遇は自己規定と啓発の機械として理解される。本節はそのいくつかの枠組を示唆する。
・ツールとインスツルメント:宇宙と時間に関わる身体と精神
ほとんどの物質的・言語的構築物が変化を免れないことは、とりわけ作品が観客に晒されることで生じる、アートの創造におけるエピジェネシス[=非DNA的環境由来の遺伝的変化]を理解する助けになる。
公共圏での生を開始した作品は、記憶・記録、再生産、再演、対話、改変、そして段階的または突発的な破損を通じて、驚くほど変化に満ちた旅路を私たちに見せてくれる。
・プロトタイプ:時間と異質に晒されるドローイング
プロトタイプは実験的プロセスの骨格であり、そこでアイデアは一連の仮説的状況に晒され、また、所与の文脈における一定期間の放置を通じて、アイデアを物質的化する固有の実体に由来して派生するべき現象を実際に引き起こすことができる。
・認知的フィードバック:ドローイングと即興
即興とドローイングの実践は、観察と創造の間、ならびに行動の結果と着想の源の間で絶え間なく双方向的に働いている認知的現象として見ることができる。この継続的運動に固有の衝突が避けがたく生み出す多種多様なアーチファクト(意図せぬ歪み)は、次第に表象を覆い尽くし、やがてその現象について知覚される本質にも多大な影響を与える程になる。
・非合理的な人工知能:乱数性のための枠組と回路
特定の組織、記憶[記憶装置ならびに生体記憶]、あるいは中央集権化された処理を用いずにエネルギーや情報に変化を与える作品やメカニズムを構築することは、そこに入力される素材(意識、光、音、運動エネルギーなど種類を問わず)の本質についての啓示的な体験をもたらすことができる。
第3章:遭遇の内側
・没入、歓喜、他者性
深い集中状態を導く行動には様々なものがある。そこでは自我と(何らかの方法で所与の文脈を概ね無効化する)行為の再融合が生じる。それは「未知なるもの」が自我の内側から顕然し、外部に存在するその部分と再結合を試みるものとして捉えられる。
・遭遇におけるグノーシス[霊的認知]
もし「遭遇」を自我とその外部にあるもの両方に関わる変化を伴う発見行為として見れば、それは学習との関係においても理解されなければならない。その効果が一定の時間の経過の中で生じる場合、そこには一連のものとしてみなされる諸段階があり、しかし、それは実際には模倣と創造の間を振動しているのである。
・一過性のリアリティの意図的な実現化
展示・パフォーマンス空間の連続性は「観察」の増幅装置として理解されるが、それを駆動させるのは、アートとして理解される諸要素をポケットの中の一時的現実として生じさせることのできる自動化された不信の宙づりである。
・ステージとしてのインスタレーション
インスタレーションには色々な定義ある。基本的にそれは空間への介入であり、より重要なことは、それは展示が行われる状況への言及の一形態であるということだ。そこでは作品と展示の伝統的な境界は曖昧にされるか放棄される。
アートと「遭遇」を同概念として等式化することで、アーティストを日常のリアリティに対し代替/宙づりの状況を設定する存在としてみなすことが可能になる。
結論:作品内の相互作用から対話へ
スペクタクルとして理解されるアートのあらゆる構成要素の間にある関係的構造に生じる変移が可能にするのは、その変幻自在の特性を積極的に意識しつつ、観客や文脈との作用によって生じる作品の同一性の再構築を厭わないアートの在り方である。
アートは、その真の意図に向かうため、「未知なるもの」の断片を現実へと統合するよう人々に促す。
近代の美術鑑賞においては、あらゆる類の未完成作品や試作品が高く評価される。こうした関心は、後により複雑な完成品としてなるものの前身や、逸失あるいは破損した大作の一部を成すものに限らない。多くの場合、それら未完成作品は(その脆さや断片性にも関わらず)独立した作品として扱われ、何世紀にも渡り熱心な美術鑑賞者達を魅惑している。アーティストを制作に向かわせる動機、制作過程における完成のビジョン。そして作品と観客の間に生じる関係性の間には隔たりがあるが、そのことを十分意識して制作された作品は観客の前に現前することでこの隔たりを生じさせる諸要素の開示と再定義を可能にする。
第1章:話者について
・自己と他者の境界
人間、そして同様の自律したシステム・オーガニズム(さらにはその構成要素)全般を大枠で定義するのは、他者との相互関係における役割と立ち位置である。したがって、自我の輪郭は自己意識の領域/境界面と等しくなる。このシステムは感覚[的に理解される世界]とは峻別された空間を貫いており、それゆえに、私たちがそこにどのように接続することができるかについて無自覚な限り、そのシステムは自我にとっては異質なものとして知覚される。
・変化と転移
上で述べたことの帰結として、文脈や属性の知覚(大きさ、形、位置、役割)に生じる転移は、知覚された現象や対象の内在的自我の再査定を引き起こす。
・「間」とそれを満たすもの
定義に囚われることなく自由に動き回る要素が潜伏している。それを「未知なるもの」と呼ぼう。この「未知なるもの」を直接体験することは不可能だが、その介在によって形作られる周囲のすべてに注意を払うことで接近を試みることは可能だと考えられる。
空・無
仏教と道教の文献を中心として虚無と不在を扱う概念について考察する。この文脈において「無」は、意識に固有の限界を超えた行為を可能にする力ないし存在として理解される。この思想は、「空(梵=シューニャター)」という周囲の環境の意味の変化の中で私たちの経験の真の性質を常に再査定することを求める教義に基づいて洗練されてきたものである。
ドゥエンデ(悪魔)
フラメンコは即興性に深く関わる西洋の伝統的表現形式のひとつであり、そこで用いられるドゥエンデ(悪魔)という概念は表現の形式そのものとパフォーマー自身の個性を超えて、パフォーマンスにある種の強度が表出することを意味している。その最も簡潔かつ古典的な説明にフェデリコ・ガルシア・ロルカのエッセイ「ドゥエンデの理論と役割」がある。
グリッチ―機械の幽霊
機械は特定のタスクを遂行するために設計・構築され、その設計から外れるあらゆる挙動は伝統的な工学の観点では望ましくないものとして見なされる。しかし、アートの観点から機械を見れば、こうした予期せぬ挙動はエピジェネティック[=非DNA的環境由来の遺伝的変化]なものであり、内部から生じた新たなプロセスの誕生である。それは[未知なるもの]がシステム内部に染みいり、そのシステムを変化させ未踏の領域へと向かわれる望ましいできごととして捉えることができる。
・音楽の統語論の外にある音
本章の前節み見られるように、芸術の要素は、作品が存在する見取り図の内部におけるキャラクターや声として見なすことができる。芸術の要素はまた、定義や精査を超えていることがその主要な特徴のひとつであるため、継続的に示唆されながらも決して明確には定義されない要素としての「未知なる物」を巡って巡回するものとしても見ることができる。
第2章:背景と方法
複数性を有した枠組の中でのみ可能となる一定の物事があり、[意図せぬ]遭遇は自己規定と啓発の機械として理解される。本節はそのいくつかの枠組を示唆する。
・ツールとインスツルメント:宇宙と時間に関わる身体と精神
ほとんどの物質的・言語的構築物が変化を免れないことは、とりわけ作品が観客に晒されることで生じる、アートの創造におけるエピジェネシス[=非DNA的環境由来の遺伝的変化]を理解する助けになる。
公共圏での生を開始した作品は、記憶・記録、再生産、再演、対話、改変、そして段階的または突発的な破損を通じて、驚くほど変化に満ちた旅路を私たちに見せてくれる。
・プロトタイプ:時間と異質に晒されるドローイング
プロトタイプは実験的プロセスの骨格であり、そこでアイデアは一連の仮説的状況に晒され、また、所与の文脈における一定期間の放置を通じて、アイデアを物質的化する固有の実体に由来して派生するべき現象を実際に引き起こすことができる。
・認知的フィードバック:ドローイングと即興
即興とドローイングの実践は、観察と創造の間、ならびに行動の結果と着想の源の間で絶え間なく双方向的に働いている認知的現象として見ることができる。この継続的運動に固有の衝突が避けがたく生み出す多種多様なアーチファクト(意図せぬ歪み)は、次第に表象を覆い尽くし、やがてその現象について知覚される本質にも多大な影響を与える程になる。
・非合理的な人工知能:乱数性のための枠組と回路
特定の組織、記憶[記憶装置ならびに生体記憶]、あるいは中央集権化された処理を用いずにエネルギーや情報に変化を与える作品やメカニズムを構築することは、そこに入力される素材(意識、光、音、運動エネルギーなど種類を問わず)の本質についての啓示的な体験をもたらすことができる。
第3章:遭遇の内側
・没入、歓喜、他者性
深い集中状態を導く行動には様々なものがある。そこでは自我と(何らかの方法で所与の文脈を概ね無効化する)行為の再融合が生じる。それは「未知なるもの」が自我の内側から顕然し、外部に存在するその部分と再結合を試みるものとして捉えられる。
・遭遇におけるグノーシス[霊的認知]
もし「遭遇」を自我とその外部にあるもの両方に関わる変化を伴う発見行為として見れば、それは学習との関係においても理解されなければならない。その効果が一定の時間の経過の中で生じる場合、そこには一連のものとしてみなされる諸段階があり、しかし、それは実際には模倣と創造の間を振動しているのである。
・一過性のリアリティの意図的な実現化
展示・パフォーマンス空間の連続性は「観察」の増幅装置として理解されるが、それを駆動させるのは、アートとして理解される諸要素をポケットの中の一時的現実として生じさせることのできる自動化された不信の宙づりである。
・ステージとしてのインスタレーション
インスタレーションには色々な定義ある。基本的にそれは空間への介入であり、より重要なことは、それは展示が行われる状況への言及の一形態であるということだ。そこでは作品と展示の伝統的な境界は曖昧にされるか放棄される。
アートと「遭遇」を同概念として等式化することで、アーティストを日常のリアリティに対し代替/宙づりの状況を設定する存在としてみなすことが可能になる。
結論:作品内の相互作用から対話へ
スペクタクルとして理解されるアートのあらゆる構成要素の間にある関係的構造に生じる変移が可能にするのは、その変幻自在の特性を積極的に意識しつつ、観客や文脈との作用によって生じる作品の同一性の再構築を厭わないアートの在り方である。
アートは、その真の意図に向かうため、「未知なるもの」の断片を現実へと統合するよう人々に促す。
審査委員
坂口寛敏 木幡和枝 小林正人 小山穂太郎 是枝開
坂口寛敏 木幡和枝 小林正人 小山穂太郎 是枝開