Oil Painting
妄想する身体
高田 冬彦
私は、自らが演じるパフォーマンスを撮影した映像作品(ビデオパフォーマンス)を主な作風として活動してきた。主に自宅アパートで撮影される映像の中で、ポップアイコンや神話的なキャラクターなどに分した私が、ナルシスティックで露悪的、誇大妄想的な世界を繰り広げる。
本論は基本的に、このビデオパフォーマンスという手法の可能性や特性、限界を、特に自作自演を繰り返してきた当事者の主観的、経験的、心理的記述に重点をおきつつ、検討していく制作論である。その中で、映像に現れる自意識過剰や、憧れといった心理が作品の表面的な露悪性とどう結びつき、それが鑑賞者とどのような関係を結びうるかを考察していく。さらにそれがどのように現在の社会の批評たり得ているかを、ハイアート以外も含む視覚文化全般を参照しながら考察する。
私の作品を見る人には、どうしてもぱっと見の奇天烈さ、グロテスクさ、過剰さ、という印象が一番先に目につくようだ。それゆえ、作者の内面の秘めたる欲望やオブセッションが「自己表現」として外側にあふれたものとして、作品がとらえられてしまう。しかし、日常生活における作者はそうしたエキセントリックな夢想とは無縁の、比較的地味な人物である。つまり私の作品は、作者の単純な欲望の結果というよりも、むしろ欲望そのものを発生させる触媒のような動きを持つ機構として、さらにその動きによって欲望の根拠、無根拠を考察させるための視覚的な装置として、存在している。本論の考察もこうした映像の触媒的な作用に重点が置かれている。
本論では、ビデオパフォーマンスの特徴を、「鏡像性」、「霊媒性」、「切断性」、「対面性」というキーワードで読み解く。それぞれに各章を当て、第1章で「鏡像性」を、第2章で「霊媒性」を、第3章で「切断性」と「対面性」を考察する。
ビデオパフォーマンスの基礎的な特徴は、撮影する際の「カメラ=モニター」が鏡として存在し、パフォーマーが自分自身の姿と向き合いながら撮影を進める点である。つまり現代的に言えば「自撮り」をしながら制作を行うわけであり、これを「鏡像性」と呼ぶ。第1章では、これに繋がる議論として、そもそも「鏡像」が人間の欲望とどう繋がっているかを、ラカンの「鏡像段階論」に触れたり、私が最も影響を受けている映像形式であるMV(ミュージックビデオ)を取り上げたりしながら、考察する。たとえばMVを「鏡」として見ることで、鑑賞者は自分とミュージシャンの意識をダブらせて全納感に浸ったりする。私が作品で取り上げたい「鏡像的欲望」とは、このような、大衆的で世俗的な欲望である。
第2章「霊媒性」は、上に述べた、「欲望そのものを生み出す触媒的機構」としてのビデオパフォーマンスの考察である。実際の制作の現場において、パフォーマー(つまり私自身)の中に「鏡像的欲望」がどのように発生し、駆動されていくかを詳細に記述していくことで、その催眠的な効果を確認する。
第3章では、視点を切り替え、一種の観客論としてビデオパフォーマンスを読み解く。ビデオパフォーマンスの特徴は、撮影自体は自室やスタジオなどの閉鎖的な空間で、孤独のうちに進められることである。そしてその後、作品映像はインスタレーションとして観客と対面する事になる。こうした、ビデオパフォーマンスにおける作品(パフォーマー)と観客の関係の特徴を、両者が同じ時空間を共有するリアルなパフォーマンス、(つまりダンスや演劇)と比較しながら検討する。「切断性」では、主にパフォーマーである私自身の主観的視点から、観客の視線にさらされることの意味を記述する、「対面性」では逆に主に観客の視点から、(映像という仮想的メディアで)パフォーマーと一体一で対面する経験の意味を、読み解いて行く。
第4章「憧れる身体」では、具体的なビデオパフォーマンスの機構の考察から距離をおき、その中で私が提示している身体の様子自体にフォーカスする。その際重要になるキーワードが、「実際の身体」と「鏡像的身体」という2つの身体性である。「実際の身体」とは、物理的なマテリアルとしての身体、「鏡像的身体」とは、自分が人にどう見られているか、といった二次元的視覚イメージとしての身体である。多くの人間はこの二つの身体性の間でほどほどにバランスを取りながら生活している。だが私はここで、この2つが大きくずれてしまった身体、極端に幻想的な憧れの自己イメージを持ってしまい。「実際の身体」と幻想の間で揺れ動くような身体を考察する。私が1~3章で述べたような、ビデオパフォーマンスの「霊媒的」機構を用いるのは、自分自身を、そんな両極に引き裂かれた「憧れる身体」に変容させて行くためだといえるだろう。そしてそんな「憧れる身体」は、大衆的で世俗的な欲望の産物でもある。私の作品は、一見すると過激で不穏な雰囲気があるが、むしろ、上述した「鏡像的欲望」にまつわる、民衆のキッチュな欲望の姿を扱おうとしている点にオリジナリティがあるといえる。
加えて結章では、ビデオパフォーマンスという手法の限界や、今後の発展性について述べる。
本論では、以上のような議論を通じて、「鏡としての映像」という観点から、ビデオパフォーマンスの特性について論じる事になる。
本論は基本的に、このビデオパフォーマンスという手法の可能性や特性、限界を、特に自作自演を繰り返してきた当事者の主観的、経験的、心理的記述に重点をおきつつ、検討していく制作論である。その中で、映像に現れる自意識過剰や、憧れといった心理が作品の表面的な露悪性とどう結びつき、それが鑑賞者とどのような関係を結びうるかを考察していく。さらにそれがどのように現在の社会の批評たり得ているかを、ハイアート以外も含む視覚文化全般を参照しながら考察する。
私の作品を見る人には、どうしてもぱっと見の奇天烈さ、グロテスクさ、過剰さ、という印象が一番先に目につくようだ。それゆえ、作者の内面の秘めたる欲望やオブセッションが「自己表現」として外側にあふれたものとして、作品がとらえられてしまう。しかし、日常生活における作者はそうしたエキセントリックな夢想とは無縁の、比較的地味な人物である。つまり私の作品は、作者の単純な欲望の結果というよりも、むしろ欲望そのものを発生させる触媒のような動きを持つ機構として、さらにその動きによって欲望の根拠、無根拠を考察させるための視覚的な装置として、存在している。本論の考察もこうした映像の触媒的な作用に重点が置かれている。
本論では、ビデオパフォーマンスの特徴を、「鏡像性」、「霊媒性」、「切断性」、「対面性」というキーワードで読み解く。それぞれに各章を当て、第1章で「鏡像性」を、第2章で「霊媒性」を、第3章で「切断性」と「対面性」を考察する。
ビデオパフォーマンスの基礎的な特徴は、撮影する際の「カメラ=モニター」が鏡として存在し、パフォーマーが自分自身の姿と向き合いながら撮影を進める点である。つまり現代的に言えば「自撮り」をしながら制作を行うわけであり、これを「鏡像性」と呼ぶ。第1章では、これに繋がる議論として、そもそも「鏡像」が人間の欲望とどう繋がっているかを、ラカンの「鏡像段階論」に触れたり、私が最も影響を受けている映像形式であるMV(ミュージックビデオ)を取り上げたりしながら、考察する。たとえばMVを「鏡」として見ることで、鑑賞者は自分とミュージシャンの意識をダブらせて全納感に浸ったりする。私が作品で取り上げたい「鏡像的欲望」とは、このような、大衆的で世俗的な欲望である。
第2章「霊媒性」は、上に述べた、「欲望そのものを生み出す触媒的機構」としてのビデオパフォーマンスの考察である。実際の制作の現場において、パフォーマー(つまり私自身)の中に「鏡像的欲望」がどのように発生し、駆動されていくかを詳細に記述していくことで、その催眠的な効果を確認する。
第3章では、視点を切り替え、一種の観客論としてビデオパフォーマンスを読み解く。ビデオパフォーマンスの特徴は、撮影自体は自室やスタジオなどの閉鎖的な空間で、孤独のうちに進められることである。そしてその後、作品映像はインスタレーションとして観客と対面する事になる。こうした、ビデオパフォーマンスにおける作品(パフォーマー)と観客の関係の特徴を、両者が同じ時空間を共有するリアルなパフォーマンス、(つまりダンスや演劇)と比較しながら検討する。「切断性」では、主にパフォーマーである私自身の主観的視点から、観客の視線にさらされることの意味を記述する、「対面性」では逆に主に観客の視点から、(映像という仮想的メディアで)パフォーマーと一体一で対面する経験の意味を、読み解いて行く。
第4章「憧れる身体」では、具体的なビデオパフォーマンスの機構の考察から距離をおき、その中で私が提示している身体の様子自体にフォーカスする。その際重要になるキーワードが、「実際の身体」と「鏡像的身体」という2つの身体性である。「実際の身体」とは、物理的なマテリアルとしての身体、「鏡像的身体」とは、自分が人にどう見られているか、といった二次元的視覚イメージとしての身体である。多くの人間はこの二つの身体性の間でほどほどにバランスを取りながら生活している。だが私はここで、この2つが大きくずれてしまった身体、極端に幻想的な憧れの自己イメージを持ってしまい。「実際の身体」と幻想の間で揺れ動くような身体を考察する。私が1~3章で述べたような、ビデオパフォーマンスの「霊媒的」機構を用いるのは、自分自身を、そんな両極に引き裂かれた「憧れる身体」に変容させて行くためだといえるだろう。そしてそんな「憧れる身体」は、大衆的で世俗的な欲望の産物でもある。私の作品は、一見すると過激で不穏な雰囲気があるが、むしろ、上述した「鏡像的欲望」にまつわる、民衆のキッチュな欲望の姿を扱おうとしている点にオリジナリティがあるといえる。
加えて結章では、ビデオパフォーマンスという手法の限界や、今後の発展性について述べる。
本論では、以上のような議論を通じて、「鏡としての映像」という観点から、ビデオパフォーマンスの特性について論じる事になる。
審査委員
齋藤芽生 布施英利 杉戸洋 OJUN 小林正人
齋藤芽生 布施英利 杉戸洋 OJUN 小林正人