Oil Painting
「限界性」の芸術~内的価値、贈与、時間にむすびつけて~
大江 晃世
「退学届ありますか?」
これは、筆者が博士3年時に制作した自主映画の中のセリフである。藝大を舞台にしたこの映画の中で、制作に行き詰まりを感じた主人公が、教務係に向かってこう話すのだ。しかし、このセリフは筆者自身の体験に元付いたものだった。
筆者は学部生の頃、絵を描くことは誰のためになるのだろう?絵を描くことは何のためになるのだろう?と考えていた。絵画というものは、私たちの「現実」を外側から見つめる「メタ(meta)」視点のようなものである。よって自分が美術の世界に身を置くことそのものが、純粋な生活者としてのリアリティーを失うことになるのではないかという恐怖があったのだ。実際に授業や展覧会、画廊めぐりなどで近現代美術史を学ぶなかで、自分もそのような美術史上の位置付けに追いつけるよう制作していたが、そのなかで別の自分が、どこか虚しさと、底抜けの孤独のようなものを感じていた。「美術」の概念そのものや、それが形成する世界に対する疑問ともいえる。現代アートの文脈上でハイコンテクスト化した作品に対して、美術を知らない人が理解できるのだろうか?この世界に没入することによって世間や純粋な生活者の世界から取り残されていくような気がしていた。そして退学も考えたのだった。
しかし、筆者は様々な街の人々に出会うことで、芸術に対する興味を別の角度から取り持ったのだった。それは、美術を学んでいない人たちの生活そのものに芸術性を見出していく行為だった。
鶴見俊輔が提唱した「限界芸術」という概念がある。生活と芸術の協会に位置するという意味で「限界」であり、生活の中でのちょっとした工夫、遊び、創作などを指す。結果的にマジョリティに共有されゆくハイアートやポップアートも、始まりはこの限界芸術である。限界芸術とは日常における美的経験の高まりのひとつである。筆者は、日々生まれるそのような美的経験に興味が向かっていった。そして街とのつながりのなかで、展覧会を企画したり、音楽・映像・映画を作っていくこととなった。街やそこに住まう人々の自然な面白さに目を向け、創作として高める。それは、自分とその街との関わりからしか生まれない「限界性」の芸術だった。
本論ではこの限界芸術の概念から独自に取り出した「限界性」という性質を深く考察しながら、筆者の制作活動とその展開に結びつけて論じる。鶴見は限界芸術の英訳を「marginal art」であるとしている。ここから筆者は、規格化される以前の芸術、つまり制作者の個人的な生活の中の体験や、その心にいだく「内的な価値」に、芸術が生まれる瞬間としてのmarginalな状態を見出す。そしてこの芸術の黎明ともいえる状態を「限界性」と呼ぶ。多くの人に共有されることだけが芸術の目的ではなく、「内的な価値」、すなわち個人や地域で生まれた、彼らのためだけの表現も十分に芸術としての役割を果たすことを証明したい。そしてこの「限界性」そのものが、作品の面白さ・美しさの源であることを見出す。
本論の構成は以下となる。
第1章は「限界芸術の中の『限界性』」と題し、先に述べた中村三佐男さんの作品を中心に限界芸術野基礎的な概念を抑え、その上で「限界性」の概念を抜き出す作業を行う。
第2章は、「地域と描く 映像・音楽・演劇」と題し、その限界性を追求するために筆者が行ってきた活動を紹介する。特に「場所性・地域性」に特化した活動を述べる。
第3章は、「銀座地下街ラジオくん」と題し、筆者が博士課程において中心的に行ってきた銀座の「三原橋地下街」の調査・情報発信の活動について述べる。
第4章では、「『限界性』の展覧会」と題し、筆者が企画・代表を行った限界芸術に関する2つの展覧会について解説する。1つは「限界藝術大学文化祭」というイベント・展覧会であり、もう1つは「東京藝術大学 藝祭100年の歴史展」という展覧会である。ここでの展示されたのは、大学という場における、専門性と非専門性の表現領域を横断しながら創作されたものだ。この境界における芸術表現の行き来を考察する。
第5章では、「『限界性』と内的な価値」と題し、1~4章でみてきた筆者の活動を元に、多様な例を引用しながら、理論的な考察を加える。限界藝術には、ひとつのコミュニティーで生まれ共有される「内的な価値」が存在する。そしてそこには「してあげる」「わたす」などのコミュニケーションが介在し、これは贈与と交換の問題とも深くつながってくる。
第6章は「映画『時間美術館』」と題し、第5章までの考察を最終的に集約した長編の映画制作について説明を加える。テーマは「見出す行為」によって、「すべての時間が芸術になりえる」というものだ。この映画制作をもって、「限界性」の概念と、今まで行ってきた制作や地域における活動を通じての制作を結びつける考察の結論としたい。
これは、筆者が博士3年時に制作した自主映画の中のセリフである。藝大を舞台にしたこの映画の中で、制作に行き詰まりを感じた主人公が、教務係に向かってこう話すのだ。しかし、このセリフは筆者自身の体験に元付いたものだった。
筆者は学部生の頃、絵を描くことは誰のためになるのだろう?絵を描くことは何のためになるのだろう?と考えていた。絵画というものは、私たちの「現実」を外側から見つめる「メタ(meta)」視点のようなものである。よって自分が美術の世界に身を置くことそのものが、純粋な生活者としてのリアリティーを失うことになるのではないかという恐怖があったのだ。実際に授業や展覧会、画廊めぐりなどで近現代美術史を学ぶなかで、自分もそのような美術史上の位置付けに追いつけるよう制作していたが、そのなかで別の自分が、どこか虚しさと、底抜けの孤独のようなものを感じていた。「美術」の概念そのものや、それが形成する世界に対する疑問ともいえる。現代アートの文脈上でハイコンテクスト化した作品に対して、美術を知らない人が理解できるのだろうか?この世界に没入することによって世間や純粋な生活者の世界から取り残されていくような気がしていた。そして退学も考えたのだった。
しかし、筆者は様々な街の人々に出会うことで、芸術に対する興味を別の角度から取り持ったのだった。それは、美術を学んでいない人たちの生活そのものに芸術性を見出していく行為だった。
鶴見俊輔が提唱した「限界芸術」という概念がある。生活と芸術の協会に位置するという意味で「限界」であり、生活の中でのちょっとした工夫、遊び、創作などを指す。結果的にマジョリティに共有されゆくハイアートやポップアートも、始まりはこの限界芸術である。限界芸術とは日常における美的経験の高まりのひとつである。筆者は、日々生まれるそのような美的経験に興味が向かっていった。そして街とのつながりのなかで、展覧会を企画したり、音楽・映像・映画を作っていくこととなった。街やそこに住まう人々の自然な面白さに目を向け、創作として高める。それは、自分とその街との関わりからしか生まれない「限界性」の芸術だった。
本論ではこの限界芸術の概念から独自に取り出した「限界性」という性質を深く考察しながら、筆者の制作活動とその展開に結びつけて論じる。鶴見は限界芸術の英訳を「marginal art」であるとしている。ここから筆者は、規格化される以前の芸術、つまり制作者の個人的な生活の中の体験や、その心にいだく「内的な価値」に、芸術が生まれる瞬間としてのmarginalな状態を見出す。そしてこの芸術の黎明ともいえる状態を「限界性」と呼ぶ。多くの人に共有されることだけが芸術の目的ではなく、「内的な価値」、すなわち個人や地域で生まれた、彼らのためだけの表現も十分に芸術としての役割を果たすことを証明したい。そしてこの「限界性」そのものが、作品の面白さ・美しさの源であることを見出す。
本論の構成は以下となる。
第1章は「限界芸術の中の『限界性』」と題し、先に述べた中村三佐男さんの作品を中心に限界芸術野基礎的な概念を抑え、その上で「限界性」の概念を抜き出す作業を行う。
第2章は、「地域と描く 映像・音楽・演劇」と題し、その限界性を追求するために筆者が行ってきた活動を紹介する。特に「場所性・地域性」に特化した活動を述べる。
第3章は、「銀座地下街ラジオくん」と題し、筆者が博士課程において中心的に行ってきた銀座の「三原橋地下街」の調査・情報発信の活動について述べる。
第4章では、「『限界性』の展覧会」と題し、筆者が企画・代表を行った限界芸術に関する2つの展覧会について解説する。1つは「限界藝術大学文化祭」というイベント・展覧会であり、もう1つは「東京藝術大学 藝祭100年の歴史展」という展覧会である。ここでの展示されたのは、大学という場における、専門性と非専門性の表現領域を横断しながら創作されたものだ。この境界における芸術表現の行き来を考察する。
第5章では、「『限界性』と内的な価値」と題し、1~4章でみてきた筆者の活動を元に、多様な例を引用しながら、理論的な考察を加える。限界藝術には、ひとつのコミュニティーで生まれ共有される「内的な価値」が存在する。そしてそこには「してあげる」「わたす」などのコミュニケーションが介在し、これは贈与と交換の問題とも深くつながってくる。
第6章は「映画『時間美術館』」と題し、第5章までの考察を最終的に集約した長編の映画制作について説明を加える。テーマは「見出す行為」によって、「すべての時間が芸術になりえる」というものだ。この映画制作をもって、「限界性」の概念と、今まで行ってきた制作や地域における活動を通じての制作を結びつける考察の結論としたい。
審査委員
中村政人 福住廉 秋本貴透 毛利嘉孝
中村政人 福住廉 秋本貴透 毛利嘉孝