Japanese Painting
交錯するアイデンティティー
アンジェリッチ マリヤーナ
本論文では、自身におけるアイデンティティーの「交錯」と、その実践としての作品制作について論述する。このテーマを設定した理由は、母国セルビアを離れて日本へ留学したのち、時間の経過と友に、身近な人々との間に出来ていた境界線が、次第に曖昧化していって行ったことにある。
来日当初、私と出会う人々との間には、見えない境界線が、意識的、無意識的に作り上げられていた。その境界線の一つを、私は赤いラインと呼ぶ。それは決して越える事が出来ないもので、外国人としての私と、日本人との間に存在する境界線である。肌感覚での経験として、それは日本社会の中での自分自身の捉え方に、大きな影響を与えた。二つ目の境界線は越えられるものとしての言葉の壁であり、三つ目の境界線は、柔軟性を持つ人間であれば誰でも越えられる、価値観の壁である。最後の二つの境界線を越えた事で、私の中に何か「儚さ」を伴う感情が生まれ、一つ目の境界線への捉え方をも変える事になった。私と彼らとの間の赤い境界線は、今は何処にあるのか。そもそもなぜ境界線は出来上がるのか。人が違いについて語ることは、暴力的な行為であると言ったジッドゥ・クリシュナムルティの言葉は、本当なのだろうか。
本論文は、次の3章で構成する。
第1章「ナショナルアイデンティティーの交錯」では、私個人の持つアイデンティティーの様々な側面について考察する。まず私の知る2つの国、セルビアと日本、両国の文化的アイデンティティーを同時に持つことについて検証する。オスマン帝国からの独立後(19世紀前半)のセルビア芸術の歴史と、当時の芸術家達にとってのアイデンティティーを表現する事の意味について考える。そして、同時期の日本の国民的意識(ナショナル・アイデンティティー)と、それが岡倉天心や五浦の作家たちにとって如何なるものだったかについても検証する。また過去の事例として、中国・清王朝に使えたイタリア人画家ジュゼッペ・カスティリオーネをとりあげ、そこでの越境とアイデンティティーの交錯について見る。そこから国民的意識なるものが私にとってもつ意味と役割について考察する。
第2章「文字によるアイデンティティーの交錯」では、私が自作品中に文字を取り込んできた理由と実態、文字の果たす役割について検証する。また文化的文脈を含む文字が持つ意義、たとえば漢字を使用する民族、キリル文字やラテン文字を使用する民族等、それぞれの民族が文字を介して有するアイデンティティーについて考察する。使っている地域にもよるが、キリル字を使うだけで、消極的なアイデンティティーが生まれる事は珍しくない。その消極的な価値観については、ビジュアルアートやデザインなどの影響、自分自身のコミュニケーションの取り方と自作品の影響について論じる。そして、文字を作品中に取り入れている芸術家達と、彼らにとっての文字の意義に注目し、自作品との共通点や相違点を検証する。
第3章「自己作品」では、第1~2章を踏まえ、私のこれまでの作品と、今回の提出作品について解説する。モチーフの選択とその文化的な意義、またセルビアと日本のモチーフ、そのどちらにも属さないモチーフについて、それぞれ検証する。日本画を描いている自分と現代セルビア作家とのずれや、地域による美意識の傾向について考える。そして最後に、日本画の材料を使うことでの、自作品における表現の変化と、岩絵具の選択、特に瑠璃色を使う意味について考察する。
来日当初、私と出会う人々との間には、見えない境界線が、意識的、無意識的に作り上げられていた。その境界線の一つを、私は赤いラインと呼ぶ。それは決して越える事が出来ないもので、外国人としての私と、日本人との間に存在する境界線である。肌感覚での経験として、それは日本社会の中での自分自身の捉え方に、大きな影響を与えた。二つ目の境界線は越えられるものとしての言葉の壁であり、三つ目の境界線は、柔軟性を持つ人間であれば誰でも越えられる、価値観の壁である。最後の二つの境界線を越えた事で、私の中に何か「儚さ」を伴う感情が生まれ、一つ目の境界線への捉え方をも変える事になった。私と彼らとの間の赤い境界線は、今は何処にあるのか。そもそもなぜ境界線は出来上がるのか。人が違いについて語ることは、暴力的な行為であると言ったジッドゥ・クリシュナムルティの言葉は、本当なのだろうか。
本論文は、次の3章で構成する。
第1章「ナショナルアイデンティティーの交錯」では、私個人の持つアイデンティティーの様々な側面について考察する。まず私の知る2つの国、セルビアと日本、両国の文化的アイデンティティーを同時に持つことについて検証する。オスマン帝国からの独立後(19世紀前半)のセルビア芸術の歴史と、当時の芸術家達にとってのアイデンティティーを表現する事の意味について考える。そして、同時期の日本の国民的意識(ナショナル・アイデンティティー)と、それが岡倉天心や五浦の作家たちにとって如何なるものだったかについても検証する。また過去の事例として、中国・清王朝に使えたイタリア人画家ジュゼッペ・カスティリオーネをとりあげ、そこでの越境とアイデンティティーの交錯について見る。そこから国民的意識なるものが私にとってもつ意味と役割について考察する。
第2章「文字によるアイデンティティーの交錯」では、私が自作品中に文字を取り込んできた理由と実態、文字の果たす役割について検証する。また文化的文脈を含む文字が持つ意義、たとえば漢字を使用する民族、キリル文字やラテン文字を使用する民族等、それぞれの民族が文字を介して有するアイデンティティーについて考察する。使っている地域にもよるが、キリル字を使うだけで、消極的なアイデンティティーが生まれる事は珍しくない。その消極的な価値観については、ビジュアルアートやデザインなどの影響、自分自身のコミュニケーションの取り方と自作品の影響について論じる。そして、文字を作品中に取り入れている芸術家達と、彼らにとっての文字の意義に注目し、自作品との共通点や相違点を検証する。
第3章「自己作品」では、第1~2章を踏まえ、私のこれまでの作品と、今回の提出作品について解説する。モチーフの選択とその文化的な意義、またセルビアと日本のモチーフ、そのどちらにも属さないモチーフについて、それぞれ検証する。日本画を描いている自分と現代セルビア作家とのずれや、地域による美意識の傾向について考える。そして最後に、日本画の材料を使うことでの、自作品における表現の変化と、岩絵具の選択、特に瑠璃色を使う意味について考察する。
審査委員
梅原幸雄 佐藤道信 齋藤典彦 手塚雄二
梅原幸雄 佐藤道信 齋藤典彦 手塚雄二