Inter-Media Art
「物語構造化」する「日本型アートプロジェクト」に対する態度としての表現の研究 協話と笑いについて
佐藤 悠
筆者は、アートプロジェクト型の表現を行ってゆくにあたり、その内容の共有、伝達の困難さを感じるようになった。非物質的な要素を主軸に持つこのような活動は、動画や写真などに記録したものを第3者に提示しても、現場で生まれた価値観や、人々に起こった変化などを伝えることに大きな困難が伴う。そんな状況の中、筆者は「語り」 によって、プロジェクトが伝えられている事に気づく。アーティストや、企画者の語りによって、まだ見えないプロジェクトが想起され、人々を巻き込んでゆき、また、目に見えるものは何も残らなかったプロジェクトも、参加者によって語り継がれることで、記録、伝播されてゆく。アートプロジェクトは、一つの物語の共作ではないか、そう思い至ったことが、今回の研究のきっかけになった。
アートプロジェクトが物語の構造に接近してゆく状態を本論では「物語構造化」と呼び、研究を行う中で、過度な「物語構造化」によって引き起こされる弊害が、現在アートプロジェクトに対して指摘されている課題となっているのではないかと考えるようになった。本論は、アートプロジェクトと物語の関係を考察しながら、急速な「物語構造化」が引き起こす状況の研究と、その状況に対する表現を模索するものである。
1章では、まず本論が扱う「日本型アートプロジェクト」がどのような物であるか、先行研究を参考にしながら、様々な角度から考察した。1節では1950年代から、現在までのアートプロジェクトの成立の歴史を追い、「場」、「時間」「関係性」への興味から始まった表現が、「社会的事象との有効な関わり」を求められるようになっていった変遷を総括する。2節では、様々な研究者などが表すアートプロジェクトの定義を比較検討し、この分野が扱う「芸術」と「社会」のバランスがどのように推移しているのかを考察した。3節、4節では、プロジェクトを実践している研究者の論文などから、アートプロジェクトの構造や、活動を支える精神について触れ、5節では、「形骸化」「陳腐化」「マイクロユートピア化」など、現在アートプロジェクトが指摘されている課題についてまとめた。
2章では、アートプロジェクトと物語の関係について、野家啓ーや、大塚英志などの物語論を参照して述べた。1節では、非物質的な要素を扱うアートプロジェクトと、経験不可能な出来事をコンテクストに落とし込むことで共有可能にする「物語行為」の関係について、2節ではアートプロジェクトと民話の物語構造の関係について、成年式的な構造が見出せることについて論じた。3節では2節で参照した「物語構造」をもとに、いくつかのアートプロジェクトの記述を検証し、共通の構造が見出せることを指摘した。さらに4節、5節では、人々が物語を求める要因である現在の時代背景や、物語的因果律、物語の消費行動などの、物語と人々の関係性に触れ、アートプロジェクトの過度な「物語構造化」 によって生じる課題とその対抗策について論じた。
3章では「物語構造化」によって生じる状況に対する、表現を探った。過度な「物語構造化」への対応として、物語を作りあい、その構造に意織的になり、さらに相対化してゆく表現を提示し、1節ではその手掛かりとして、「解釈学的変容性」を有する口承による表現に着目した。その中でも、場の誰もが相互的に語り合う協話によって物語を共同制作する「シンローグ」という手法に注目し、2節、3節、4節では類似例を挙げながら、その話法を考察した。5節では、自身の活動「いちまいばなし」に触れながら、「物語構造」を相対化する「シンローグ」についてさらに詳しく論じ、カタリとハナシを行き来しながら、協話を行うことで、「物語構造」の相対化を行う方法を示した。
4章では、3章で扱ったシンローグ「いちまいぱなし」の現場で、価値を作る基単となる「笑い」に注目し、笑いがもたらす作用を分析しながら、この行為が「物語構造」の相対化において、大きな価値基準となる物であり、ひいては美学不在と言われているアートプロジェクトの新たな美学となる可能性を論じた。1節では「シンローグ」での笑いの役割について述べ、2節では笑いの生理学的側面や、分類などの研究を行いながら、「シンローグ」で発生する笑いがどのような物なのかについて分析した。その中で、あるべき世界と、そうではない世界の間で、解離的な接続が起こることで笑いがおきるという「二世界方式」根底にあることが分かり、それが「物語構造」を相対化してゆく「シンローグ」の 笑いにつながってゆくことを述べた。
終章では、これまでの論を総括し、アートプロジェクトと物語の関係を意識することで、現在指摘されている課題や、閉塞性を転換する可能性を、「シンローグ」と「笑い」の中に見出せることについて述べ、論を閉じた。
アートプロジェクトが物語の構造に接近してゆく状態を本論では「物語構造化」と呼び、研究を行う中で、過度な「物語構造化」によって引き起こされる弊害が、現在アートプロジェクトに対して指摘されている課題となっているのではないかと考えるようになった。本論は、アートプロジェクトと物語の関係を考察しながら、急速な「物語構造化」が引き起こす状況の研究と、その状況に対する表現を模索するものである。
1章では、まず本論が扱う「日本型アートプロジェクト」がどのような物であるか、先行研究を参考にしながら、様々な角度から考察した。1節では1950年代から、現在までのアートプロジェクトの成立の歴史を追い、「場」、「時間」「関係性」への興味から始まった表現が、「社会的事象との有効な関わり」を求められるようになっていった変遷を総括する。2節では、様々な研究者などが表すアートプロジェクトの定義を比較検討し、この分野が扱う「芸術」と「社会」のバランスがどのように推移しているのかを考察した。3節、4節では、プロジェクトを実践している研究者の論文などから、アートプロジェクトの構造や、活動を支える精神について触れ、5節では、「形骸化」「陳腐化」「マイクロユートピア化」など、現在アートプロジェクトが指摘されている課題についてまとめた。
2章では、アートプロジェクトと物語の関係について、野家啓ーや、大塚英志などの物語論を参照して述べた。1節では、非物質的な要素を扱うアートプロジェクトと、経験不可能な出来事をコンテクストに落とし込むことで共有可能にする「物語行為」の関係について、2節ではアートプロジェクトと民話の物語構造の関係について、成年式的な構造が見出せることについて論じた。3節では2節で参照した「物語構造」をもとに、いくつかのアートプロジェクトの記述を検証し、共通の構造が見出せることを指摘した。さらに4節、5節では、人々が物語を求める要因である現在の時代背景や、物語的因果律、物語の消費行動などの、物語と人々の関係性に触れ、アートプロジェクトの過度な「物語構造化」 によって生じる課題とその対抗策について論じた。
3章では「物語構造化」によって生じる状況に対する、表現を探った。過度な「物語構造化」への対応として、物語を作りあい、その構造に意織的になり、さらに相対化してゆく表現を提示し、1節ではその手掛かりとして、「解釈学的変容性」を有する口承による表現に着目した。その中でも、場の誰もが相互的に語り合う協話によって物語を共同制作する「シンローグ」という手法に注目し、2節、3節、4節では類似例を挙げながら、その話法を考察した。5節では、自身の活動「いちまいばなし」に触れながら、「物語構造」を相対化する「シンローグ」についてさらに詳しく論じ、カタリとハナシを行き来しながら、協話を行うことで、「物語構造」の相対化を行う方法を示した。
4章では、3章で扱ったシンローグ「いちまいぱなし」の現場で、価値を作る基単となる「笑い」に注目し、笑いがもたらす作用を分析しながら、この行為が「物語構造」の相対化において、大きな価値基準となる物であり、ひいては美学不在と言われているアートプロジェクトの新たな美学となる可能性を論じた。1節では「シンローグ」での笑いの役割について述べ、2節では笑いの生理学的側面や、分類などの研究を行いながら、「シンローグ」で発生する笑いがどのような物なのかについて分析した。その中で、あるべき世界と、そうではない世界の間で、解離的な接続が起こることで笑いがおきるという「二世界方式」根底にあることが分かり、それが「物語構造」を相対化してゆく「シンローグ」の 笑いにつながってゆくことを述べた。
終章では、これまでの論を総括し、アートプロジェクトと物語の関係を意識することで、現在指摘されている課題や、閉塞性を転換する可能性を、「シンローグ」と「笑い」の中に見出せることについて述べ、論を閉じた。
審査委員
日比野克彦 古川聖 八谷和彦
日比野克彦 古川聖 八谷和彦