Inter-Media Art
写真身体論 序説
三野 新
本論における目的を三つ挙げる。一つ目は「写真身体論」の定義を措定してみることである。第一章では、その定義について宇野邦ーによる『映像身体論』の映像身体の定義をパラフレーズしながら論じていくことにする。
第二の目的は、現在の写真身体論を実践する作家を挙げ、その写真身体の有り様を分析し、その課題を明らかにすることにある。本論においては、美術家の森村泰昌を取り上げた。それは第二章で語られる。筆者が新しく立ち上げようとする写真身体論の先駆として森村を再評価した上で、そこに存在する問題点を明らかにしていく。その問題点とは、「今的な」身体が写真にも表象するかどうかだ。そこで、森村における被写体としての身体性にわたしは焦点を絞り、そこに内在する写真身体を同一平面上に語ることの困難さを明らかにし、その課題を前景化し、それを克服した上で、現代的な写真身体論を構築していく作業を行うことにした。
最後に三つ目。それは、今後の自作における立ち位置の表明のためである。そのため、本論は、2016年12月の博士審査展に出品する作品を補強するものでもある。というのも、本論において、写真身体論の具体的実践に関する論はほとんど出てきていないからである。それは、実作の問題として表明するものとする。
さて、その後の章も少しだけ詳しく見てみよう。
第二章で挙げる写真身体論の課題は大きく二つ挙げられる。そのーっとして、写真身体の「非日常への傾斜」が存在する。写真身体を「非日常化」へ振り過ぎる振り子の幅を相対化し、日常性の方へと固まった振り子を揺り戻すためには、身体は消去されていくしかないということを論じていかなければならない。そこで第三章で筆者は河原温を写真身体論的立場からパフォーマンスアーティストとして措定し、“Today”シリーズの「絵画」をその「記録写真」であると考え論を進める。写真身体が、生きること総体としての表現方法を取ることによって、身体を消尽させていく方法へと論じていく。
第四章では、その流れから、いかにそのような状態で、写真身体論的表現が可能かを検討する。ここでは、サミュエル・ベケットによる身体性、特に眼に関する考察を進めることで議論を進める。身体を消尽させるために、ベケットは存在する娘と存在しない眼を一度区別した上で、両義性を持たせて表現することを試みた。写真身体における、特異な身体性をベケットに関する論文を読み解きながら明らかにしていく。河原によって消された身体性は、幽霊的な眼によって再び見出されることになる。
もう一つの写真身体の課題は、「異なる」ことよりも「似ている」ことの優位性を前提に存在する写真身体にとって、身体のイメージと写真身体のイメージを同一化されて考えられてきた、ということだ。問題となるのは、森村にとって、自分と「似ている」ことと、写真に写る自分のイメージが「似ている」ことは同じこととしている点だ。「似ている」ことの優位性を説く森村にとって、じつはこの違いを混在していることは致命的であり、その混在によって、結局「異なる」ことによって優位性を得ているように考えられてしまい、写真身体的方法が暖昧化してしまう。ではどうするか。写真身体論的観点において、第五章では、ジャン=リュック・ゴダールを召喚して考察を進める。写真身体のイメージが徹底的に「似ている」ことのみによって完結し、そこに差異を持ち込む論理を排除するゴダールの狂気を筆者は選択した。ヒトラーとレーニンが「同じもの」へと飛躍するそのイメージ同士の連なりがただ「似ている」ことのみによって構成する平倉圭の『ゴダール的方法』をパラフレーズすることで、写真身体的方法としても同時に考察していく。
第五章までに挙げた写真身体論的課題と過去の作家達を参考にしながら写真身体論における問題点とその解決を試みるわけだが、それを現代の表現の状態を概観しながら議論を進めていき、いかに実践可能かをまとめていくのがエピローグである。
本論のタイトルには「序説」という単語を付しているが、この理由は、筆者のこれからの活動に関しての引き続きの仮定と実証と実践のサイクルへと引き継がれていくためである。と同時に、本論から創発されたジャンルによって、より議論が活発化し、芸術的実践が発達し、同志として参画する人が出てくることを願うものでもある。
第二の目的は、現在の写真身体論を実践する作家を挙げ、その写真身体の有り様を分析し、その課題を明らかにすることにある。本論においては、美術家の森村泰昌を取り上げた。それは第二章で語られる。筆者が新しく立ち上げようとする写真身体論の先駆として森村を再評価した上で、そこに存在する問題点を明らかにしていく。その問題点とは、「今的な」身体が写真にも表象するかどうかだ。そこで、森村における被写体としての身体性にわたしは焦点を絞り、そこに内在する写真身体を同一平面上に語ることの困難さを明らかにし、その課題を前景化し、それを克服した上で、現代的な写真身体論を構築していく作業を行うことにした。
最後に三つ目。それは、今後の自作における立ち位置の表明のためである。そのため、本論は、2016年12月の博士審査展に出品する作品を補強するものでもある。というのも、本論において、写真身体論の具体的実践に関する論はほとんど出てきていないからである。それは、実作の問題として表明するものとする。
さて、その後の章も少しだけ詳しく見てみよう。
第二章で挙げる写真身体論の課題は大きく二つ挙げられる。そのーっとして、写真身体の「非日常への傾斜」が存在する。写真身体を「非日常化」へ振り過ぎる振り子の幅を相対化し、日常性の方へと固まった振り子を揺り戻すためには、身体は消去されていくしかないということを論じていかなければならない。そこで第三章で筆者は河原温を写真身体論的立場からパフォーマンスアーティストとして措定し、“Today”シリーズの「絵画」をその「記録写真」であると考え論を進める。写真身体が、生きること総体としての表現方法を取ることによって、身体を消尽させていく方法へと論じていく。
第四章では、その流れから、いかにそのような状態で、写真身体論的表現が可能かを検討する。ここでは、サミュエル・ベケットによる身体性、特に眼に関する考察を進めることで議論を進める。身体を消尽させるために、ベケットは存在する娘と存在しない眼を一度区別した上で、両義性を持たせて表現することを試みた。写真身体における、特異な身体性をベケットに関する論文を読み解きながら明らかにしていく。河原によって消された身体性は、幽霊的な眼によって再び見出されることになる。
もう一つの写真身体の課題は、「異なる」ことよりも「似ている」ことの優位性を前提に存在する写真身体にとって、身体のイメージと写真身体のイメージを同一化されて考えられてきた、ということだ。問題となるのは、森村にとって、自分と「似ている」ことと、写真に写る自分のイメージが「似ている」ことは同じこととしている点だ。「似ている」ことの優位性を説く森村にとって、じつはこの違いを混在していることは致命的であり、その混在によって、結局「異なる」ことによって優位性を得ているように考えられてしまい、写真身体的方法が暖昧化してしまう。ではどうするか。写真身体論的観点において、第五章では、ジャン=リュック・ゴダールを召喚して考察を進める。写真身体のイメージが徹底的に「似ている」ことのみによって完結し、そこに差異を持ち込む論理を排除するゴダールの狂気を筆者は選択した。ヒトラーとレーニンが「同じもの」へと飛躍するそのイメージ同士の連なりがただ「似ている」ことのみによって構成する平倉圭の『ゴダール的方法』をパラフレーズすることで、写真身体的方法としても同時に考察していく。
第五章までに挙げた写真身体論的課題と過去の作家達を参考にしながら写真身体論における問題点とその解決を試みるわけだが、それを現代の表現の状態を概観しながら議論を進めていき、いかに実践可能かをまとめていくのがエピローグである。
本論のタイトルには「序説」という単語を付しているが、この理由は、筆者のこれからの活動に関しての引き続きの仮定と実証と実践のサイクルへと引き継がれていくためである。と同時に、本論から創発されたジャンルによって、より議論が活発化し、芸術的実践が発達し、同志として参画する人が出てくることを願うものでもある。
審査委員
鈴木理策 伊藤俊治 小沢剛 佐々木敦
鈴木理策 伊藤俊治 小沢剛 佐々木敦