Craft
仏教儀式・散華からみたジュエリーの造形研究
崔 壽現
私は修士課程において癒しを与える造形に興味を持ち、多肉植物をモチーフにジュエリーを研究して来た。フォルムや造形が人々に与える印象や影響、そして人が造形物を視覚的に捉える際に抱く感情を念頭におき、その表現を試みた。例えば、丸みを帯びた形は柔らかく優しい印象を、鋭く角ばった形は、冷たさやかしこまった感情を抱かせる。多肉植物で表現をしたのは、植物の持つ生命力、そしてその愛らしい形が見る人に与える安心感や安らぎである。
私が作品を作る上で最も大切にしていることは、他者とのコミュニケーションを図ること、特に作品を通じて私自身が感じている感情や世界観を共有することにある。私がジュエリーに価値をおくのも、ジュエリーは人の心を左右するものであり、ときめきと喜びを与えてくれるからである。ジュエリーは人の身を飾るという芸術の中でも文字通り人と密接な関わりがあり、ジュエリーを作ることで私が感じたものを人と共感したいと思ったことから取組始めたものだ。ジュエリーは身につけた際に装着する人物の個性や人柄をも表すだけでなくつける人の感情を反映する。直接身につける行為は日常生活に元気と楽しみを与えるだけでなく、身につける人の一部になって、否定的な感情から解放させてくれることもあるだろう。
私にとってのジュエリーの意味は富や地位の象徴では無く、マリッジリングのように、個人的な感情や想いを表せる手段だと考えている。
博士課程に於いては、更に他者の感情や感覚に触れる造形や表現を作品に投影することを目標とし、フォルムや造形からのイメージの表現に留まらず、情景や記憶、私たちの心の根底にあるものをテーマとし、私自身の記憶を遡り最も鮮烈に残る情景を探り、形にすることとした。
ある日、恩師である飯野一朗先生が古美術研修旅行の引率から帰られた時、散華を観られた経験を話してくれた。その時、幼少期に見た美しい散華の記憶が走馬灯のように思い出された。代々家の宗教が仏教であり、私が通った幼稚園も寺院に付属していたこともあったため、幼い頃から仏教と関わることが多かった。私の母国である韓国では毎年、釈迦誕生日になると蓮の花の灯りを作り、そこに蝋燭を灯して祈りを捧げる風習がある。その日が近くなると寺から始まった蓮の花の灯りは列を作って町の中まで灯りで染まって行く。釈迦誕生を祝う日、空から降ってくる花びらが舞う様子の美しさを目の当たりにし、何か大きなものに守られているような安心感や喜びを感じているその瞬間の記憶が心の奥にある。
そして、日本に留学している私にとって日本での散華はどのように行われているか興味が湧いて来た。早速、散華の儀式が行われる東大寺と興福寺がある古都奈良へ向かった。そこでの散華儀式で降ってくる花びらはその情景の美しさと荘厳なる雰囲気に包まれていた。私は奈良でも母国と同様に癒されているような感覚や心地よさを感じた。
韓国人でありながら現在、日本に留学している私にとって、日本と韓国が共有する宗教が仏教であることを改めて認識した。歴史的に辿ってみると文化の土台となるのは宗教なのである。人間は極めて宗教的な生き物であり、人類の歴史と宗教の歴史は軌をーにするとも言えるだろう。様々な宗教のなかでも、特に仏教は儀礼を中心にした伝統を重んじてきた。
その仏教の儀礼の中でも、最も重要とされているのが釈迦誕生を祝う儀式であり、ここでは散華が欠かさず行われている。仏教の経典には仏が誕生する目、空から雨のように花が降ってきたという表現がある。すなわち、仏がこの世に来たことを賛嘆したのが散華の始まりである。このように始まった散華は仏教の経典だけでなく、絵画や儀式、建築や工芸など、仏教の造形芸術に至るまで様々な形で表されている。
こうした散華を通じて感じた情景の美しさと心地よさを、長年学んできた彫金技法を用いジュエリーという形で表現したい。そして、この作品が古くからの伝統と現在、未来に繋がるものであって欲しいというのが、博士課程での目指すところである。私は修士課程で人を癒す造形について研究をしてきたが、散華も本来、天と人間をつなげてくれると共に、それによって人聞に心の平穏(安心立命)を与えるものである。すなわち、私たちにとって最も根源的な癒しの概念と言える。
本研究は仏教の儀式から自己作品のインスピレーションを得たものの、仏教における散華について歴史的な検証を行うことが目的ではないことを予め述べておく。ここでは、仏教の散華の象徴がどのように造形化されているのかを考察し、それをもとに私なりに再解釈したジュエリーを制作することを目指し、よりジュエリー制作の幅広い可能性を見出したいと思う。
私が作品を作る上で最も大切にしていることは、他者とのコミュニケーションを図ること、特に作品を通じて私自身が感じている感情や世界観を共有することにある。私がジュエリーに価値をおくのも、ジュエリーは人の心を左右するものであり、ときめきと喜びを与えてくれるからである。ジュエリーは人の身を飾るという芸術の中でも文字通り人と密接な関わりがあり、ジュエリーを作ることで私が感じたものを人と共感したいと思ったことから取組始めたものだ。ジュエリーは身につけた際に装着する人物の個性や人柄をも表すだけでなくつける人の感情を反映する。直接身につける行為は日常生活に元気と楽しみを与えるだけでなく、身につける人の一部になって、否定的な感情から解放させてくれることもあるだろう。
私にとってのジュエリーの意味は富や地位の象徴では無く、マリッジリングのように、個人的な感情や想いを表せる手段だと考えている。
博士課程に於いては、更に他者の感情や感覚に触れる造形や表現を作品に投影することを目標とし、フォルムや造形からのイメージの表現に留まらず、情景や記憶、私たちの心の根底にあるものをテーマとし、私自身の記憶を遡り最も鮮烈に残る情景を探り、形にすることとした。
ある日、恩師である飯野一朗先生が古美術研修旅行の引率から帰られた時、散華を観られた経験を話してくれた。その時、幼少期に見た美しい散華の記憶が走馬灯のように思い出された。代々家の宗教が仏教であり、私が通った幼稚園も寺院に付属していたこともあったため、幼い頃から仏教と関わることが多かった。私の母国である韓国では毎年、釈迦誕生日になると蓮の花の灯りを作り、そこに蝋燭を灯して祈りを捧げる風習がある。その日が近くなると寺から始まった蓮の花の灯りは列を作って町の中まで灯りで染まって行く。釈迦誕生を祝う日、空から降ってくる花びらが舞う様子の美しさを目の当たりにし、何か大きなものに守られているような安心感や喜びを感じているその瞬間の記憶が心の奥にある。
そして、日本に留学している私にとって日本での散華はどのように行われているか興味が湧いて来た。早速、散華の儀式が行われる東大寺と興福寺がある古都奈良へ向かった。そこでの散華儀式で降ってくる花びらはその情景の美しさと荘厳なる雰囲気に包まれていた。私は奈良でも母国と同様に癒されているような感覚や心地よさを感じた。
韓国人でありながら現在、日本に留学している私にとって、日本と韓国が共有する宗教が仏教であることを改めて認識した。歴史的に辿ってみると文化の土台となるのは宗教なのである。人間は極めて宗教的な生き物であり、人類の歴史と宗教の歴史は軌をーにするとも言えるだろう。様々な宗教のなかでも、特に仏教は儀礼を中心にした伝統を重んじてきた。
その仏教の儀礼の中でも、最も重要とされているのが釈迦誕生を祝う儀式であり、ここでは散華が欠かさず行われている。仏教の経典には仏が誕生する目、空から雨のように花が降ってきたという表現がある。すなわち、仏がこの世に来たことを賛嘆したのが散華の始まりである。このように始まった散華は仏教の経典だけでなく、絵画や儀式、建築や工芸など、仏教の造形芸術に至るまで様々な形で表されている。
こうした散華を通じて感じた情景の美しさと心地よさを、長年学んできた彫金技法を用いジュエリーという形で表現したい。そして、この作品が古くからの伝統と現在、未来に繋がるものであって欲しいというのが、博士課程での目指すところである。私は修士課程で人を癒す造形について研究をしてきたが、散華も本来、天と人間をつなげてくれると共に、それによって人聞に心の平穏(安心立命)を与えるものである。すなわち、私たちにとって最も根源的な癒しの概念と言える。
本研究は仏教の儀式から自己作品のインスピレーションを得たものの、仏教における散華について歴史的な検証を行うことが目的ではないことを予め述べておく。ここでは、仏教の散華の象徴がどのように造形化されているのかを考察し、それをもとに私なりに再解釈したジュエリーを制作することを目指し、よりジュエリー制作の幅広い可能性を見出したいと思う。
審査委員
飯野一朗 関昭郎 前田宏智 桐野文良
飯野一朗 関昭郎 前田宏智 桐野文良