Conservation
近世建築彫物と下絵の相関性についての研究諏訪立川流の建築彫物
小野 貴登司
近世社寺建築の大きな特徴として彫物(木彫刻装飾)を多用する傾向があり、桃山時代から江戸時代を通じて江戸後期・幕末までその傾向が続く。それらは近世初頭の桃山様式におけるものと江戸後期以降のものと少なくとも二つの峯がある。本研究は、江戸時代後期の代表的な彫物大工である諏訪立川流の建築彫物と下絵の相関性について論考する。
諏訪立川流二代立川和四郎冨昌(以下、立川冨畠)の作である『諏訪大社上社本宮左右片拝殿腰羽目彫物「獅子と牡丹」』の模刻制作を行うと同時に、彫物制作においての下絵の扱いや作図方法、彫物との相関性について考察する。また、本研究対象と構図の類似が指摘されていた豊川稲荷妙厳寺旧法堂欄間を比較して、下絵を通じた関連性や設置場所違いによる彫り方の差異について考察を行う。
諏訪立川流は、初代立川和四郎冨棟が江戸において建築と宮彫り技術の修行した後、地元の諏訪で興した彫物大工の流派である。その後、代々「和四郎」という名跡を継ぎ、二代冨昌、三代冨重、四代冨淳と江戸後期から明治まで続いた。
二代立川和四郎冨昌の代には、仕事が広範囲にわたり中部・東海地方を始め、東は千葉神社、西は京都御所御門の彫物を手掛けている。こうした活躍の中で、様々な人物と交流するようになり、名声を聞き及んだ江戸幕府老中松平定信にも見出されている。
諏訪立川流の活躍した時期の社会背景において、特筆すべきこととて、1720年(享保5年)の八代将軍徳川吉宗によるキリスト教以外の漢訳洋書の輸入緩和が挙げられる。この時期は、日本が鎖国体制から脱却して、限定的ではあるが西洋の幾何学や測量技術などが紹介される時期であった。この時に流入した西洋の幾何学や測量における作図には、コンパスが必要とされた。これ以後、江戸時代の各分野の文献にもコンパスを用いた作図法を紹介したものが見られるようになる。建築規矩術うちの「規術」を主に扱った溝口若狭林卿の『方圓順度』、測量家の村井昌弘の『量地指南前編』、浮世絵の葛飾北斎による『略画早指南』で、コンパスを活用した作図法が紹介されている。
立川冨昌は葛飾北斎に私淑しており、先行研究でも、立川富昌の下絵の絵画技法に葛飾北斎の影響が見られるとしている。実際に、諏訪立川流の下絵を収蔵している『宮坂家文書』(諏訪市指定有形文化財)の中にもコンパスを活用した作図がされている下絵を確認した。そこで諏訪大社上社本宮左右片拝殿の下絵とされている「獅子と牡丹」の下絵にも、コンパスの活用が見られるのではないかと推測し、想定される正円を当てはめて検証した。すべての下絵において、獅子の背中から大腿部にかけての線や頭部の形状に想定される正円が内包していると思われた。
また、諏訪立川流の下絵と3Dデータ正投影図から抽出した白描図を重ね合わせることで、下絵が彫物にどれだけ反映されているかを検証した所、本研究で模刻を行った諏訪大社上社左右片拝殿腰羽目彫物のうち1枚(左片拝殿腰羽目彫物の真中のもの)は、枠の比率は一致するものの、彫刻部分の近似する箇所がほとんど見られなかった。しかし、獅子の体躯に関しては、下絵よりも実物の彫物の方が一定の比率で拡大されていることが分かった。
同様に、諏訪大社上社本宮左右片拝殿腰羽目彫物と構図の類似が指摘されていた豊川稲荷妙厳寺旧法堂欄間の白描図と下絵を重ね合わせた所、上下の枠の比率の一致や多くの箇所で近似が確認できた。このことから、従来、諏訪大社上社左右片拝殿腰羽目彫物のものとされていた下絵の彫刻部分は、豊川稲荷妙厳寺旧法堂欄間の複写の可能性が高いと推測される。寸法や設置場所の違う多くの彫物を同時に制作する彫物大工にとって、その都度、下絵を制作することは多大な労を費やすことになり、下絵の再利用や複写がつねに行われていたことが伺える。
また、合理的に下絵やその構図を再利用する方法のもう一つの手段として、コンパスが活用されてのではないかと着目した。前述した研究対象において、コンパスを活用した同心円で拡大すれば一定の比率で容易に拡大することができる。多くの仕事を同時に手掛ける彫物大工には有効な作図法である。獅子の構図にコンパスを活用して、規則性を持って作図することで、拡大・縮小が容易になり、どの寸法にも対応が可能となる。諏訪立川流は、下絵の構図に完成された規則性を有していたと恩われる。そのことは、下絵が単に絵画というだけでなく、合理的な設計図であったことを如実に物語っていると言える。
諏訪立川流二代立川和四郎冨昌(以下、立川冨畠)の作である『諏訪大社上社本宮左右片拝殿腰羽目彫物「獅子と牡丹」』の模刻制作を行うと同時に、彫物制作においての下絵の扱いや作図方法、彫物との相関性について考察する。また、本研究対象と構図の類似が指摘されていた豊川稲荷妙厳寺旧法堂欄間を比較して、下絵を通じた関連性や設置場所違いによる彫り方の差異について考察を行う。
諏訪立川流は、初代立川和四郎冨棟が江戸において建築と宮彫り技術の修行した後、地元の諏訪で興した彫物大工の流派である。その後、代々「和四郎」という名跡を継ぎ、二代冨昌、三代冨重、四代冨淳と江戸後期から明治まで続いた。
二代立川和四郎冨昌の代には、仕事が広範囲にわたり中部・東海地方を始め、東は千葉神社、西は京都御所御門の彫物を手掛けている。こうした活躍の中で、様々な人物と交流するようになり、名声を聞き及んだ江戸幕府老中松平定信にも見出されている。
諏訪立川流の活躍した時期の社会背景において、特筆すべきこととて、1720年(享保5年)の八代将軍徳川吉宗によるキリスト教以外の漢訳洋書の輸入緩和が挙げられる。この時期は、日本が鎖国体制から脱却して、限定的ではあるが西洋の幾何学や測量技術などが紹介される時期であった。この時に流入した西洋の幾何学や測量における作図には、コンパスが必要とされた。これ以後、江戸時代の各分野の文献にもコンパスを用いた作図法を紹介したものが見られるようになる。建築規矩術うちの「規術」を主に扱った溝口若狭林卿の『方圓順度』、測量家の村井昌弘の『量地指南前編』、浮世絵の葛飾北斎による『略画早指南』で、コンパスを活用した作図法が紹介されている。
立川冨昌は葛飾北斎に私淑しており、先行研究でも、立川富昌の下絵の絵画技法に葛飾北斎の影響が見られるとしている。実際に、諏訪立川流の下絵を収蔵している『宮坂家文書』(諏訪市指定有形文化財)の中にもコンパスを活用した作図がされている下絵を確認した。そこで諏訪大社上社本宮左右片拝殿の下絵とされている「獅子と牡丹」の下絵にも、コンパスの活用が見られるのではないかと推測し、想定される正円を当てはめて検証した。すべての下絵において、獅子の背中から大腿部にかけての線や頭部の形状に想定される正円が内包していると思われた。
また、諏訪立川流の下絵と3Dデータ正投影図から抽出した白描図を重ね合わせることで、下絵が彫物にどれだけ反映されているかを検証した所、本研究で模刻を行った諏訪大社上社左右片拝殿腰羽目彫物のうち1枚(左片拝殿腰羽目彫物の真中のもの)は、枠の比率は一致するものの、彫刻部分の近似する箇所がほとんど見られなかった。しかし、獅子の体躯に関しては、下絵よりも実物の彫物の方が一定の比率で拡大されていることが分かった。
同様に、諏訪大社上社本宮左右片拝殿腰羽目彫物と構図の類似が指摘されていた豊川稲荷妙厳寺旧法堂欄間の白描図と下絵を重ね合わせた所、上下の枠の比率の一致や多くの箇所で近似が確認できた。このことから、従来、諏訪大社上社左右片拝殿腰羽目彫物のものとされていた下絵の彫刻部分は、豊川稲荷妙厳寺旧法堂欄間の複写の可能性が高いと推測される。寸法や設置場所の違う多くの彫物を同時に制作する彫物大工にとって、その都度、下絵を制作することは多大な労を費やすことになり、下絵の再利用や複写がつねに行われていたことが伺える。
また、合理的に下絵やその構図を再利用する方法のもう一つの手段として、コンパスが活用されてのではないかと着目した。前述した研究対象において、コンパスを活用した同心円で拡大すれば一定の比率で容易に拡大することができる。多くの仕事を同時に手掛ける彫物大工には有効な作図法である。獅子の構図にコンパスを活用して、規則性を持って作図することで、拡大・縮小が容易になり、どの寸法にも対応が可能となる。諏訪立川流は、下絵の構図に完成された規則性を有していたと恩われる。そのことは、下絵が単に絵画というだけでなく、合理的な設計図であったことを如実に物語っていると言える。
審査委員
藪内佐斗司 長尾充 深井隆 杉浦誠
藪内佐斗司 長尾充 深井隆 杉浦誠