Conservation
縮図からの想定復元研究天瑞寺室中旧障壁画「松図」の想定復元制作を通して
鷹濱 春奈
本研究は、原画が紛失している天瑞寺旧障壁画室中「松図」を、縮図を元に描かれた当初の画面を推定し、実技的見地から原画復元を試みる研究である。
本稿序章では、本論の想定制作において基盤となる縮図について考察し、天瑞寺旧障壁画、原家本、芳崖本について先行研究を概説し、その概要を述べた。次に第一章では、作者である永徳の絵画様式と作画の特徴について考察し、周辺絵師にどのような影響を与えたかも合わせて述べる。続いて第二章において、縮図を基に「松図」 の図様構成について検討し、想定作品の寸法についても試論を提示する。また、「松図」の特徴ともいえる金属板による日月の表現について類似作品などから考察する。そして、縮図から読み取ることができた「松図」に関する情報と、永徳様の特徴を踏まえ、第四章で想定復元作品を制作する。最後に、想定復元作品を以て本研究の結論として提示する。
天瑞寺旧障壁画の作者とされる狩野永徳(1543~1590)は、織田信長(1534~1582)や豊臣秀吉(1536~1598)といった天下人からの需要に応え、時代に即した画期的表現手段である大画様式を大成するにいたった。永徳の描いた作品は安土桃山文化の時代様式ともなり、日本絵画史の中で最も著名な絵師の一人といえるだろう。
しかし、その高名とは反して真筆とされる作品は数少なく、特に永徳特有の金碧による大画面作品は数えるほどしかないのが現状である。それは、永徳が腕をふるったその多くが、為政者たちの御殿を飾る障壁画であり、その特質上、戦火の中で建造物とともに多くが失われてしまったからである。
現存する作品が少ないにも関わらず、現代に至るまでに桃山時代=永徳といった確固とした永徳画のイメージがあるのは何故だろうか。
それは、永徳による大画様式が同時代の絵師ばかりでなく、後世にも多大な影響を与え、永徳に倣った作品が多く残されているからである。また、模写や縮図などの模本により、永徳様は写し取られ、後世の人々にその姿を伝えるに至ったと考える。
そういった貴重な永徳画を写したとされる縮図が、近年になり相次いで示された。それらは、江戸時代後期の京都画壇にて活躍した原在中(1570~1837)の家系に伝わるものと(以後、「原家本」)、狩野芳崖(1828~88)によって安政4年(1857)に描かれたものである(以後、「芳崖本J)。これら2つの縮図は描かれた時期こそ違うものの、それぞれ天瑞寺旧障壁画を縮写したものとされる。天瑞寺旧障壁画は、文献資料によって裏付けされた永徳による貴重な作品群であったため、これら縮図のもつ意義は大きい。
そもそも縮図とは、他者の作品を手控えとして縮写したものであり、粉本の一種とされる。原本を忠実に写す模写とは違い、描く者によって原本からどの要素を抽出して写すかは描き手の縮写目的によって変化する。それゆえ、同じ原本から縮図を作成しても画面の一部だけを写す、色注を書き込むなど、写した者によってその画面が違うのが特徴といえる。作者本人による下絵とは違い、他者が写すからこそ、作品から受け取った情報を客観的にそのまま描くことができ、原本のもつ特徴を強く写し取っていると考えられる。
天瑞寺旧障壁画室中「松図」は、原家本と芳崖本の両方が写しているが、その画面は前述した縮図の特徴通り違いが見られる。原家本は縮写対象を襖4面分に絞り、樹木や岩の皺など細かく描き、色注も書き込まれている。それに対し芳崖本では、襖16面分の図様を大きく捉えており、全体の画面構成を写すのに重きを置いたと推測される。これらの縮図は、永徳の作品を実見した際に描かれたとされるが、それぞれ画面から抽出したものに違いがみられ、対照的なものとなっている。
そこで本研究では、これら2つの縮図それぞれが、永徳画の特徴を別々の視点から描き写しているとし、縮図から原画を復元することは、原画のもつ特徴、つまり作者の表現様式を明確に捉えることができるのではないかと考えた。
以上のことを踏まえ、原家本、芳崖本の2つの縮図より原画を復元し、想定作品として制作する。
本研究の目的は、実際に制作を行うことで原画を復元するだけでなく、線描だけのわずかな資料である縮図から、オリジナルの本質を読み解き、一枚の絵を完成することが可能であることを実証することにある。複数の縮図から一つの作品を描くという行為は、制作に先立ち構図やモチーフの参考とし、図様を調整するといった縮図本来の機能に近いものだと考える。また、桃山時代全期に通じる画期的表現手段となった永徳画特有の大画様式を再現し、作画技法や画面構成などの実技的知見を明らかにする。縮図などの粉本から原画復元が可能であると提示できるため、粉本資料が多く残されている狩野派、特に真筆が少ないとされる永徳研究の可能性を新たに示すことに意義があると考える。
本稿序章では、本論の想定制作において基盤となる縮図について考察し、天瑞寺旧障壁画、原家本、芳崖本について先行研究を概説し、その概要を述べた。次に第一章では、作者である永徳の絵画様式と作画の特徴について考察し、周辺絵師にどのような影響を与えたかも合わせて述べる。続いて第二章において、縮図を基に「松図」 の図様構成について検討し、想定作品の寸法についても試論を提示する。また、「松図」の特徴ともいえる金属板による日月の表現について類似作品などから考察する。そして、縮図から読み取ることができた「松図」に関する情報と、永徳様の特徴を踏まえ、第四章で想定復元作品を制作する。最後に、想定復元作品を以て本研究の結論として提示する。
天瑞寺旧障壁画の作者とされる狩野永徳(1543~1590)は、織田信長(1534~1582)や豊臣秀吉(1536~1598)といった天下人からの需要に応え、時代に即した画期的表現手段である大画様式を大成するにいたった。永徳の描いた作品は安土桃山文化の時代様式ともなり、日本絵画史の中で最も著名な絵師の一人といえるだろう。
しかし、その高名とは反して真筆とされる作品は数少なく、特に永徳特有の金碧による大画面作品は数えるほどしかないのが現状である。それは、永徳が腕をふるったその多くが、為政者たちの御殿を飾る障壁画であり、その特質上、戦火の中で建造物とともに多くが失われてしまったからである。
現存する作品が少ないにも関わらず、現代に至るまでに桃山時代=永徳といった確固とした永徳画のイメージがあるのは何故だろうか。
それは、永徳による大画様式が同時代の絵師ばかりでなく、後世にも多大な影響を与え、永徳に倣った作品が多く残されているからである。また、模写や縮図などの模本により、永徳様は写し取られ、後世の人々にその姿を伝えるに至ったと考える。
そういった貴重な永徳画を写したとされる縮図が、近年になり相次いで示された。それらは、江戸時代後期の京都画壇にて活躍した原在中(1570~1837)の家系に伝わるものと(以後、「原家本」)、狩野芳崖(1828~88)によって安政4年(1857)に描かれたものである(以後、「芳崖本J)。これら2つの縮図は描かれた時期こそ違うものの、それぞれ天瑞寺旧障壁画を縮写したものとされる。天瑞寺旧障壁画は、文献資料によって裏付けされた永徳による貴重な作品群であったため、これら縮図のもつ意義は大きい。
そもそも縮図とは、他者の作品を手控えとして縮写したものであり、粉本の一種とされる。原本を忠実に写す模写とは違い、描く者によって原本からどの要素を抽出して写すかは描き手の縮写目的によって変化する。それゆえ、同じ原本から縮図を作成しても画面の一部だけを写す、色注を書き込むなど、写した者によってその画面が違うのが特徴といえる。作者本人による下絵とは違い、他者が写すからこそ、作品から受け取った情報を客観的にそのまま描くことができ、原本のもつ特徴を強く写し取っていると考えられる。
天瑞寺旧障壁画室中「松図」は、原家本と芳崖本の両方が写しているが、その画面は前述した縮図の特徴通り違いが見られる。原家本は縮写対象を襖4面分に絞り、樹木や岩の皺など細かく描き、色注も書き込まれている。それに対し芳崖本では、襖16面分の図様を大きく捉えており、全体の画面構成を写すのに重きを置いたと推測される。これらの縮図は、永徳の作品を実見した際に描かれたとされるが、それぞれ画面から抽出したものに違いがみられ、対照的なものとなっている。
そこで本研究では、これら2つの縮図それぞれが、永徳画の特徴を別々の視点から描き写しているとし、縮図から原画を復元することは、原画のもつ特徴、つまり作者の表現様式を明確に捉えることができるのではないかと考えた。
以上のことを踏まえ、原家本、芳崖本の2つの縮図より原画を復元し、想定作品として制作する。
本研究の目的は、実際に制作を行うことで原画を復元するだけでなく、線描だけのわずかな資料である縮図から、オリジナルの本質を読み解き、一枚の絵を完成することが可能であることを実証することにある。複数の縮図から一つの作品を描くという行為は、制作に先立ち構図やモチーフの参考とし、図様を調整するといった縮図本来の機能に近いものだと考える。また、桃山時代全期に通じる画期的表現手段となった永徳画特有の大画様式を再現し、作画技法や画面構成などの実技的知見を明らかにする。縮図などの粉本から原画復元が可能であると提示できるため、粉本資料が多く残されている狩野派、特に真筆が少ないとされる永徳研究の可能性を新たに示すことに意義があると考える。
審査委員
宮廻正明 有賀祥隆 荒井経 長尾充 狩俣公介
宮廻正明 有賀祥隆 荒井経 長尾充 狩俣公介