芸術と彫刻の共存、あるいはそれらの共栄の可能性を考察する。衣装は“身につける彫刻、体を覆う立体表現”であり、“衣装をまとった演者は舞台上の空間構成上重要な要素”という観点から、舞台美術と切り離さずに舞台芸術として今回の研究対象に含む。
第1章では、舞台芸術と彫刻は、それぞれの特質のもと相違点と共通点を持ち合わせていることを確認する。
舞台芸術と彫刻は、“立体と空間と光”に深く関連していると考えられる。舞台上では、これらの要素によって生まれる効果を積極的に手法として表現にとりいれている。彫刻においても、空間と光との関係の重要性は永く認識され、常に慎重に丁寧なかたちで扱われてきた。しかし、意識されるのは、彫刻本体に直接関連する辺りでの補助的役割に止まることが多い印象を受ける。
また、舞台美術と観客、演者、建築の持つ空気の共鳴は大きな力になり、現実には見えないものをその場に展開させていくことがある。それは、展示空間に見られる彫刻と鑑賞者との間に生まれる現象にも重なる。発信元である“演者”“彫刻”と、受信側としての“それに対峙する人”“観客や鑑賞者”とが、一方的な情報伝達にとどまらずお互いに作用し合うことで、そこに何らかの気持ちの動きや精神な変化を生じさせる。これらの呼吸のバランスいかんでは、同じ作品でも全く異なった印象になることがあり、伝わるメッセージさえも異なる。
彫刻によっては、作者の中だけで完結し、社会や鑑賞者との対話を拒否こともある。概ね、作者の創造性の発揮を主たる目的としているので、作品そのものが先ず強く主張する傾向にある。一方、舞台美術は他との関わりを常に意識・考慮し“あくまで総合芸術のなかの一要素”と認識されている場合が多い。
また、ほとんどの場合、鑑賞者は自由に視点を変えながら彫刻と対話する。原則として鑑賞者のペースで味わい、そこを起点に想いをめぐらすことの出来る状況下にある。対して、舞台上の場合、鑑賞者は座席という限定された一点に留まるのが殆どである。いわゆる、定点観測のようなもので、対象が立体であっても視界に入るフォームは切り取られた一側面であり、対峙する距離も限定されることで、そこからでしか見聞き出来ないことを体感し、そこでしか味わえない面白さを体験することになる。
これらの傾向をふまえて、それぞれの領域を超えて表現が現実的であるかを探っていく。
第2章では、これまでに美術家が手掛けたいくつかの興味深い舞台を先行例として検証する。美術家がそこに関わる場合、舞台装置家や衣装デザイナーのそれまでとは異なる表現が期待される。しかし、それは歴史的にも実現した例は貴重である程に容易ではないと推測される。彫刻家を含む美術家が舞台を手がける場合、その個性を充分に生かした仕事が成立するということが最低守られるべき条件になる。そうでないのであれば、作品をあえて舞台にのせる意味や、美術家が参加する理由が薄れる。実際に自作を通して現場で見られる問題点を明らかにし、同時に表現の可能性や利点の発見を試みる。舞台美術と彫刻、そこには共有出来る認識・技術・情報が多いはずである。
これらの実験と考察をふまえ第3章を結びとする。
そもそも、美術家の作品が美術家の作品らしく在ることが叶わないのであれば、美術家がその舞台に加担する意味が激減する。往々にして、現場で美術家は、脚本家や演出家の想像を具現化することだけの“意志を持ってはならない作業人”として扱われ、その作品の個性や表現の自由が認められないことが多いのが現状である。また、舞台上の作品は、美術的価値を見出されずに“消費されるモノでしかない”“舞台表現の補助用具”というような認識が広く浸透していることも、共存を難しくしている要因だと考えられる。一方、美術家は、コラボレーション度の高い舞台の場でのスタンスの取り方に十分な配慮と留意が必要になることを自覚しなくてはならない。困難をきたしがちなところではあるが、お互いを理解し尊重する努力と円滑に意思疎通を図ることで、舞台がバランスの偏った歪なものになる危険を回避する。このような場が整えば、彫刻家、演出家、脚本家それぞれの個性を生かした表現を追求することは可能になる。
在るべき彫刻の姿を舞台上で実現させるなかで、美術館や画廊で叶わなかったかもしれない彫刻の表現と、それまで無かった舞台表現が現実に一致することもあると考える。異分子が出会えば、そこに熱が発生することや反発がおこることは予想しうる現象である。しかし、そこにソリューションが見出され融合が実現すれば、新しいものが創造され見たことのない世界が広がる。環境の違いを考慮してもなお、いくつかの共通点のもとに舞台芸術と彫刻の共存あるいは共栄が可能になると確信するに至った。
第1章では、舞台芸術と彫刻は、それぞれの特質のもと相違点と共通点を持ち合わせていることを確認する。
舞台芸術と彫刻は、“立体と空間と光”に深く関連していると考えられる。舞台上では、これらの要素によって生まれる効果を積極的に手法として表現にとりいれている。彫刻においても、空間と光との関係の重要性は永く認識され、常に慎重に丁寧なかたちで扱われてきた。しかし、意識されるのは、彫刻本体に直接関連する辺りでの補助的役割に止まることが多い印象を受ける。
また、舞台美術と観客、演者、建築の持つ空気の共鳴は大きな力になり、現実には見えないものをその場に展開させていくことがある。それは、展示空間に見られる彫刻と鑑賞者との間に生まれる現象にも重なる。発信元である“演者”“彫刻”と、受信側としての“それに対峙する人”“観客や鑑賞者”とが、一方的な情報伝達にとどまらずお互いに作用し合うことで、そこに何らかの気持ちの動きや精神な変化を生じさせる。これらの呼吸のバランスいかんでは、同じ作品でも全く異なった印象になることがあり、伝わるメッセージさえも異なる。
彫刻によっては、作者の中だけで完結し、社会や鑑賞者との対話を拒否こともある。概ね、作者の創造性の発揮を主たる目的としているので、作品そのものが先ず強く主張する傾向にある。一方、舞台美術は他との関わりを常に意識・考慮し“あくまで総合芸術のなかの一要素”と認識されている場合が多い。
また、ほとんどの場合、鑑賞者は自由に視点を変えながら彫刻と対話する。原則として鑑賞者のペースで味わい、そこを起点に想いをめぐらすことの出来る状況下にある。対して、舞台上の場合、鑑賞者は座席という限定された一点に留まるのが殆どである。いわゆる、定点観測のようなもので、対象が立体であっても視界に入るフォームは切り取られた一側面であり、対峙する距離も限定されることで、そこからでしか見聞き出来ないことを体感し、そこでしか味わえない面白さを体験することになる。
これらの傾向をふまえて、それぞれの領域を超えて表現が現実的であるかを探っていく。
第2章では、これまでに美術家が手掛けたいくつかの興味深い舞台を先行例として検証する。美術家がそこに関わる場合、舞台装置家や衣装デザイナーのそれまでとは異なる表現が期待される。しかし、それは歴史的にも実現した例は貴重である程に容易ではないと推測される。彫刻家を含む美術家が舞台を手がける場合、その個性を充分に生かした仕事が成立するということが最低守られるべき条件になる。そうでないのであれば、作品をあえて舞台にのせる意味や、美術家が参加する理由が薄れる。実際に自作を通して現場で見られる問題点を明らかにし、同時に表現の可能性や利点の発見を試みる。舞台美術と彫刻、そこには共有出来る認識・技術・情報が多いはずである。
これらの実験と考察をふまえ第3章を結びとする。
そもそも、美術家の作品が美術家の作品らしく在ることが叶わないのであれば、美術家がその舞台に加担する意味が激減する。往々にして、現場で美術家は、脚本家や演出家の想像を具現化することだけの“意志を持ってはならない作業人”として扱われ、その作品の個性や表現の自由が認められないことが多いのが現状である。また、舞台上の作品は、美術的価値を見出されずに“消費されるモノでしかない”“舞台表現の補助用具”というような認識が広く浸透していることも、共存を難しくしている要因だと考えられる。一方、美術家は、コラボレーション度の高い舞台の場でのスタンスの取り方に十分な配慮と留意が必要になることを自覚しなくてはならない。困難をきたしがちなところではあるが、お互いを理解し尊重する努力と円滑に意思疎通を図ることで、舞台がバランスの偏った歪なものになる危険を回避する。このような場が整えば、彫刻家、演出家、脚本家それぞれの個性を生かした表現を追求することは可能になる。
在るべき彫刻の姿を舞台上で実現させるなかで、美術館や画廊で叶わなかったかもしれない彫刻の表現と、それまで無かった舞台表現が現実に一致することもあると考える。異分子が出会えば、そこに熱が発生することや反発がおこることは予想しうる現象である。しかし、そこにソリューションが見出され融合が実現すれば、新しいものが創造され見たことのない世界が広がる。環境の違いを考慮してもなお、いくつかの共通点のもとに舞台芸術と彫刻の共存あるいは共栄が可能になると確信するに至った。