“フロウ”する身体としての都市

 理性あるいは合理主義(rational)の語源が、比率や割合(ratio)であるように、現代における最も支配的な思考である科学的合理主義とは、物事をそれ以上分割不能なところまで分割し、その再構成によって世界を記述しようとする態度である。そして分割の行き着く果てには、常に境界的な存在という問題が立ち現れる。有と無、生命と非生命、生と死、想像と現実など、事象の境界は、突き詰めるほどに無化、曖昧化していく。
 現代社会においては、交通の高速度化、情報通信技術の発達がもたらしたボーダーレス化によって、多様な文化の混淆が世界的な規模で進んでいる。そしてその際に起きる各々のアイデンティティー間の摩擦、衝突、矛盾は、境界面の問題として、より顕在化している。現代に生きる我々は、常に様々な境界上に存在していると言える。
 絵画表現においても、科学と方法は違っても、世界をいかに記述するかということを問題にしている点では同じである。そして、絵画表現において、普遍性を追求しつつ現代的な鮮度を保つ方法を探ろうとする時にも、やはり物事の境界に対して意識的であることが鍵になるだろう。それが、渾沌と混じり合う世界の中で、画一的な価値観の中に押し込められることに対抗する手段になり得ると考える。具体的には境界的なあり方を自覚し、個別の秩序を併存させたまま受容し、その境界上で“ゆらぐ”ということである。“ゆらぐ”ことは、二元的な世界を二元的なまま受容することであり、双方の世界を自由に行き来できる身体性を獲得をすることである。私はその“ゆらぎ”を持つことこそが現代的な豊かさであると考える。
 本論は、複数の異なる秩序の隣接、混淆に対して、それらを均質な価値観の上に統合するのではなく、併存させたまま拮抗させたときに生じる“ゆらぎ”を、絵画的価値に転化させるための試みの考察である。
 具体的には、複数の秩序を単一的に記述しようとしたときに生じる“ゆらぎ”が高揚感や官能性を喚起するとした、菊地成孔の「フロウ」の解釈を援用する。それを、都市をモチーフとした絵画制作に応用することで、境界上で“ゆらぐ”という現代的かつ根源的運動を象徴し、かつ絵画的価値に昇華できるのではないかと考えた。
 第一章では、都市をその起源から概観することで、都市はその本質に、共同体間の境界としての側面と同時に、人間と自然(あるいは神々)の境界としての側面を持っていることを述べた。加えて、現代においては複雑化した社会制度や、電子通信機器の発達によるネット空間などの「バーチャルな世界」が、実際に触れることのできるフィジカルな世界に対して同等の存在感を示すようになっていることに触れ、都市がリアルとバーチャルの境界でもあることを論じた。そして、都市には境界的であることから生じる“ゆらぎ” が、その外形に表れていることを示した。
 第二章では、“現代の都市に生きる我々は、複数の世界に制約されていると同時に、複数の世界に向かって開かれた境界的な存在である”という前提に立ち、都市の“ゆらぎ”とそこに生きる我々の“ゆらぐ”身体性を、「フロウ」へと応用する具体的な過程について述べた。
 第三章では、第一章、第二章を踏まえ、過去の自己作品との照応関係を見ていくとともに、その集成である修了作品「ある都市の肖像」を解説した。

「ある都市の肖像」和紙・岩絵具・銀箔 260.0×576.0cm