内包する光:ヘテロトピアの表象

黒い木 / アルミ青銅、排気管、紙、エナメル塗装、スピーカーシステム  H:280 W:170 D:25(cm) 2014年 / 写真:葛西亜理沙

本論文は自身の作品を通して社会を考察する事を目的にしている。私は展示空間にヘテロトピアとしての場を構築することで、観者を幻想と現実の中間に位置するように促している。それにより、社会を再考察すると同時に、人々の創造性を回復することができると考える。ヘテロトピアは社会学で主に使われる言葉で、現実空間とユートピアの中間に位置する場である。私が作品の中で、ユートピアやヘテロトピアという概念を重視するのも、私自身が社会の中の一要素として存在し、作品が社会に対しての観察、応答として生成され、空間を通して行われるからである。私にとって、現実空間で実際の物体によって創造性の回復を問いかけることは、非常に重要な意味をもつ。なぜならば、物質は私に確かな世界の存在を感じさせると同時に、自身の存在をも再確認させるからである。物質や空間を通して世界の感触を確認していく行為は、現在の情報化社会への反応であり、同時に問いかけでもあると感じている。
その中で鋳造物を作品の中に取り込む事は、私自身にとって重要な意味を持っている。美術鋳物や産業鋳物と言われるように、社会の中での鋳物のあり方は幅広いが、その二つは、私の中ではある一定の隔たりをもって存在している。粘土、木、石膏、蝋などの素材と美術家が、干渉することによって生まれた原型が、土や石膏の鋳型によって虚の空間へと転化し、その空間に溶けた金属が流れ込む。そして再度、美術家が鑢や鏨、切下げなどの道具で、鋳造された金属と関わることで、鋳物は作品として成立するのである。このように生み出された鋳物は、手の感触を内包し、産業鋳物ではもちえない存在感を纏う。その存在感が観者の触覚に交わる時、創造性の引き金を引くのではないかと考える。
この論文で私は、このように生成された鋳物が、展示空間で、どのようにヘテロトピアを生み出すのかを考察した。美術家の身体を通して生み出された鋳物は、物質としても抽象的な概念としても、光を内包するのではないかと考える。物質的に研磨された金属は、反射することで光を放つ。また美術家の手によって造形された有機的なフォルムは、生きた形態として作品の中で機能し、生命の光を内包する。それは、闇を照らし出す祈りのような光であり、それがこの社会を考察するための光になるのではないか。自身の作品を考察すると共に、鋳物、光、ヘテロトピアの関係を論述した。
第1章では、自作品から全体の論点をまず説明する。それにより、自身の作品と社会の関係、および私が鋳物に見いだす媒体としての特質を論じた。第2章では、鋳物と空間の関係性について論じた。私の作品の中核となる概念、トマス・モアのユートピア概念、ミシェル・フーコーのヘテロトピア概念について言及した。鏡の空間、そしてヘテロトピアの原理を概観することで、ヘテロトピアがどのようにあり得るのかを捉えた。第3章では、鋳物が美術の場と空間の中で、どのようにヘテロトピアを構築してきたかを考察した。宗教空間での一例として、東大寺の盧遮那仏について論じた。私は、仏教空間は一種のスペクタクルとして機能し、人々にユートピアを想像させることによって、現世における苦痛を和らげる浄化作用を担っていたのではないかと考える。その視覚的効果として、黄金に輝く金銅仏が配置されたのではないか。宗教とヘテロトピア、そして鋳物との関係性を論じ、そこから展示空間の中でどのように鋳物が機能しているのかを考察した。例としてジェフ・クーンズ、アニッシュ・カプーア、そしてマシュー・モナハンの作品について、鋳物が展示空間でどのようにヘテロトピアを現出しているかを論述した。そしてそれらの作品と社会システムの関係、資本主義と消費社会が生み出した影とそれを映し出すヘテロトピアの関係性を論述した。自身が身を置く社会のこれらの関係性を考察することで、現代社会での鋳造表現、ひいては自身の作品がどのように機能しうるのかを、第4章で提出作品から考察した。

泉 / ブロンズ、排気管、フェルト、エナメル塗装 H:280 W:170 D:25(cm) 2014年 / 写真:rosenfeld porcini gallery