祈りの庭
人は皆、それぞれの生活環境や人間関係において、様々な感情の下で日々を過ごしている。それは他人への愛情や優しさ、自然やものを愛でるなどといった慈しみの行為から、悲しみ、怒り、あるいは憎しみといった負の感情まで様々である。本論では、人間が誰しももつ善の要素と負の要素を、「祈り」と「毒」という観点から考察し、この二つの要素はどちらも魅力的な表裏一体の要素でありうる事、さらに幼少期から自身に密接であった「庭」にそれを関連付けることで、自身の絵画制作の過程を考察した。
私は、仏教を信仰する両親のもとに生まれた。物心がついたときから仏教に密接にかかわり合ってきた私は、それに逆らうかのように、「祈る」という行為を軽蔑あるいは軽視していた。一方、寺院や教会に足を踏み入れたときに感じる厳かな雰囲気や、宗教絵画や彫刻、聖歌といった芸術的観点からは、どこか懐かしくもあり安らぐ様な印象を抱いていた。
その一方で、幼少期の閉じた世界から、負の要素も今日の私を形作っているものとして切り離せないものと考える。善の要素は負の要素と表裏一体であり、本論では負の要素を「毒」として表現している。本論での「毒」とは、=“死”に限定する事ではなく、人間が必ずもつ業、悩み、悲しみ、怒りといった、負の側面のことを指す。私は、人間しか持たないこれら全ての感情を、どちらも尊く美しいと感じる。
また、「祈り」「毒」といった人間の感情をテーマに描く私にとって、その背景には「庭」があった。ここでの「庭」には、幼少期の遊び場だった庭だけではなく、かつて過ごした家や故郷である小さな街も、「庭」に相通ずるものがあると考える。仕切りで囲まれた「庭」は、一つの宇宙のような神秘的なものを秘めているように感じる。西洋の宗教神話だけでなく、陰陽五行や四大元素説、密教の曼荼羅、日本庭園の枯山水にもこの思想が当てはまる。よって「庭」は、私の考察する「祈り」を形成するうえで、重要な繋がりを見出せるのではないかと考えている。「祈り」を込めて描いた作品の方が、祈らずに描いた作品よりも、遥かにこの世界と絵画とを繋ぐ役割を果たせているからである。
「祈り」と「毒」は、互いが存在するがゆえに成り立っており、私はそれを、「庭」を母胎に絵画化しようと試みた。