合わせの美学
木工芸による思考と身体の再同一化
「木目を合わせる」「天板を矧ぎ合わせる」「 擦り合わせて接着 」「 現物合わせで削る」「 合砥(あわせど)で研ぐ」など、木工芸作品の制作工程の中には、合わせる類いの加工や言葉が頻繁に登場する。これは木という素材が、自然物として生長したものであるために、ある程度限定された寸法から造形をはじめることや、湿度に影響を受ける収縮性を考慮しての造作となることが理由として挙げられる。工程の中に多く現れる合わせの手法の多さに気がつくと、平然と学び、受け入れてきたこれまでの合わせの加工に秘められた、奥底に潜む技術の意味に興味が湧いてくる。それは、古代の人類は「いったい合わせることにどんな意味を見いだしていたのか」という、 人としての生き方に対する興味である。
人類が誕生初期に木に行った造形行為は、おそらく「組む」以前に「削る」ことであったのではないか。それは生きていくための狩猟や食に使用する道具づくりとしての造形行為であったはずである。樹木から枝をもぎとり、または枯れ落ちた枝を拾い上げ、打ち砕いた石の鋭い先端を使って己の手にもちやすい形状に整形したのであろう。それを蔓などで石器をくくりつけることで、木を使った「合わせの道具」が誕生した。一木を削り、または彫ることからはじまった人類の木に対する造作は、やがてより良い暮らしを求めるうちに木に枘穴を掘り、そこへ枘を差し込む複合的行為へと進化を遂げる。その進化はやがて丈夫な住居を生みだした。現存する最古の木造建築である法隆寺を有する私たち日本人にとって、 枘と枘穴による合わせの手法のもつ強度は、実感のともなうものである。 古代の人類が歩んできた一木の造形から、組み合わせることへの加工へ進んだ歴史には、 どのような心理的背景があったのかと想いを巡らせる。同時に、合わせることは何も木工芸の世界にとどまらず、むしろあらゆる領域や素材の中での行為だったのだろうと想像する。
私たち現代人は、物の属性を分析し、安易に区分する傾向があるが、それは古代の人類には当てはまらない。おそらく、木と木を合わせることが重要であったのではなく、 合わせるという行為のもつ方法論を、木材造形の世界にもち込み、それが淘汰されることなく現在へと残ったのではないかと推測する。だとすれば、古代の人類にとって、合わせることを必要とした背景があったはずである。私はここに焦点を当てる。それはすなわち、 人類は「いったい何と何を合わせようとしていたのか」という疑問であり、「合わせることで何を成し遂げようとしたのか」という、古代の人々がもっていた切なる願いへの探究である。
木工芸制作は2つの造作領域が合わさることで成立している。「何を作るのか」という思考をともなう「モチーフ創出」工程と「どのように作るのか」という身体をともなう「作業」 工程である。本論文はこれをもとに「第1部 思考編」「第2部 身体編」「第3部 制作編」という大きな3本の柱を立ち上げた。
「 第1部 思考編」は4つの章で構成される。木工芸制作の作業工程の「部材と部材を合わせる」行為と「木の特徴に合わせる」思考について考察する。木工芸制作における「合わせ」には、適合させる意味の“adjust” と、複数の物や事をつなぐ“connect” が当てはまる。それは「同化」と「増殖」の様相を呈している。木工芸の作業上の合わせの構造に着目し、それらをモチーフ創出へ転換する試みについて論じた。
「 第2部 身体編」は3つの章で構成されるが、木工芸における手技のもつ意味を、主に鉋や鑿をはじめとする「手道具」や、砥石による「研ぎ」の現場での体験をふまえて、身体感覚の欠如がみられる現代社会へ問題提起を行う。また、自己の身体をとおした他の創作領域での造形体験や、木工芸に関連の深い農作業の体験から、創作の手がかりを探る。
博士課程在籍中に制作した作品群は「モチーフ創出」を実践して制作したものであり、博士審査作品の制作過程を含めて「第3部 制作編」で詳細に考察した。制作した4つの作品は、どれも「同化」「増殖」を意識した、合わせの手法により創作を試みたものである。
木工芸は思考と身体の合わせが作品制作に大きく影響する芸術領域である。現代では社会や芸術において思考の産物である機械化・デジタル化が進み、それらは人間のもつ身体感覚を追い越そうとしている。思考と身体が離れつつあるいま、思考と身体の再同一化に、芸術領域のみならず、社会問題を考え直す手がかりが秘められていると考え、結章で作り手としての「合わせの美学」を論じた。