気色 を染める
ろうけつ染による藝術表現の可能性
染色作品には特有の美しい色彩や、防染することで得られる特異な見え方がある。一般的な絵画に見られる絵の具により表現された状態は、表層に現れた事象である。しかし染色は物質自体を発色させる行為である。染液が繊維の芯まで染み渡った時、透明度が高く鮮やかな、それでいて重厚な色彩を得られるのである。それは、素材自体の発色として観る者に強く訴えかける。私はその美しい色彩と、絵の具とは異なる質感に魅せられ、染色という表現方法を用いて作品を制作している。
本論文は自身の藝術表現の本旨となる心の揺らぎと眼差しの変化についての見解を論じ、自身の内面表現に最適である「ろうけつ染」に焦点を当て、これまで行ってきた自身の研究を元にその特性を詳述したものである。ろうけつ染は蝋を防染剤とした染色技法である。古くは「臈纈」と呼ばれ正倉院宝物にも見ることが出来るが、その後一時途絶え、明治以降に再興された技法である。本論文を通して、染色技法の伝統を踏まえながらも規範に縛られない染色における装飾的且つ絵画的表現の可能性を明らかにすることを目指した。
第1章では、私の創作イメージの根源について叙述した。第1節では、自然界の移り変わりに対する観察を原点に、「移ろいゆく心の変化」に着目するに至った経緯を述べた。自然界の風景とその捉え方を手がかりに、心の変化に左右されて物事を捉えている我々の眼差しの曖昧さと移ろいについて考察し、鑑賞者が日々の感情に目を向けるよう働きかけることを目指す、私の創作の原点について述べた。第2節では、第1節で述べた「心がもたらす眼差しへの影響」に対して、日々の中で接する美しいものや感覚に訴えるものの蓄積が、総じてものの捉え方を形成するのではないかという仮説を立て、「日々の眼差しがもたらす心への影響」について論じた。第3節では、「客観的な視点によって共通認識できる対象物」を「景色」と呼び、対して「主観的な心の気配を感じ取る対象物」を「気色(けしき)」と表記した上で、「気色」を提出作品のモチーフに定め、自然の持つ美質とともに、それらに感化され私の心の中に生まれた情感を視覚化することを創作の目的とした経緯を明らかにした。
第2章では、技法や素材、構図について、自作品のあり方を再考した。第1節では、制作における実体験を元に染色の特性を論じた。「染める」という言葉から引き出されるイメージについて和歌を元に考察し、創作のモチーフとなる「気色」との関連性について述べた。第2節では、自作品の素材である「布」について考察した。「布」が持つ美質は「気色」を想起させるのに適しており、たおやかな存在、包まれる安心感は、自身の表現したい作品の世界観を支えている。第3節では、日本の伝統文様や参考作品との比較において、うつろいゆく感情の様子を表現し得る作品形態や構図について考察し、自作品の目指す作品のあり方を再認した。
第3章では、他の染色技法ではなく、ろうけつ染によって表現を行う理由を技法面から明らかにした。第1節では、ろうけつ染伝承の流れについて述べ、制作経験を元に、ろうけつ染の衰退の原因について考察した。一方、ろうけつ染に顕在する魅力を分析し、今後の技法の伝承と発展の為にその特殊性を明らかにした。第2節では、ろうけつ染特有の防染と染色を繰り返すことで得られる「色彩の積層」に焦点を当て、ろうけつ染が有している「積層が織りなす美」について述べた。我々の「物の捉え方」もまた、「眼差しの積層」によって成立しており、思想と技法の結びつきについて詳述した。第3節では、絵の具による絵画作品との比較によって、ろうけつ染による質感を伴う色彩の魅力について再考した。さらに、「滲み」という染色における現象と、第1章で述べたイメージの起源との関連性を明確化した。自作品の中で特に重要視している「かすれ」、「ちらし」、「エッチング」、「点描」、「うつし」などの筆を用いた蝋のテクスチャー表現について図とともに解説し、「染め描く」という自作品の独自性を考察した。ろうけつ染特有の大胆で伸びやかな表現、多彩なテクスチャー表現があるからこそ、私が伝えたいと考えている情感あふれる世界観を示すことが可能であり、自作品が成り立っていることを明らかにした。
第4章では、自作品について述べた。第1節では、自身の修士課程修了制作以降の研究制作を元に、「気色」を想起させる作品のあり方を探求した成果を示し、自作品の表現内容を作品写真と共に解説した。第2節では、自身の修士課程修了制作を例にろうけつ染の制作工程を述べた。第3節では、提出作品についてイメージの深層を詳述し、第4節では、提出作品の制作過程を示した。
以上の考察から、結章では伝統染色技法であるろうけつ染を用いる意義について述べ、ろうけつ染の今後の可能性と併せて本論文のまとめとした。