芸術を為すことを巡って
世界の記述形式——そのトランスダクティブな生成について
本研究は、「芸術とは、いかにして可能か」という、芸術実践の根幹をなす問いについて考察したものである。この問いには「芸術とは何か」と「それはいかにして可能か」という二つの問いが含まれる。本研究ではこれらの問いに対して、芸術家でもある筆者が「芸術実践に基づく研究手法(practice-based research)」によってアプローチすることを試みた。本研究は大別して、四章立てで展開される本論と、付録として付される筆者による芸術(作品)から構成される。以下に論文の構成を示す。
第一章では、まず研究の主題と手法が検討されている。「芸術とは、いかにして可能か」という問いは、通常の学問的研究規範からすればあまりに漠然とした問いであるが、筆者は、このような漠然とした問いをそれでもなお研究主題に据えなければならない理由について、「芸術実践を教育/研究する」ということや、practice-based researchという研究手法のあり方について考察することを通して述べている。
第二章では「芸術とは、いかにして可能か」という主題に含まれる二つの問いのうち、「芸術とは何か」という問いが論じられている。筆者は「芸術とは表現である」という素朴な定義を仮説として最初に立て、この仮説の有効性について、筆者自身が必然的に芸術実践を行なうことになる「いまここ」の地点において批判的に検討することによって、この問いにアプローチしている。具体的には、筆者は「いまここ」の地点を見定めるために、阪神大震災やオウム真理教事件に代表される「1995年」を現在の日本の社会様態へのメルクマールと見なす論考をいくつか取り上げ、それらの観点と監視社会化や広告化という問題の切り口から「いまここ」の状況の整理を試みる一方、他方で広告化(スペクタクル化)への抗いをその中心的な理念として活動したInternationale Situationnisteの活動を分析し、この両面の考察を通して、冒頭で仮説として立てた素朴な定義の論理的限界の指摘を試みている。さらに、筆者はこの限界点について「何でもないこと(何でもいいこと)を為す」ことの困難性という側面から検討を加え、最終的に筆者自身の「いまここ」において「芸術を為す」ということを「何でもいい何か(それゆえ「何でもあり得る何か」)を語ることができる、語りのあり方を生み出すこと」として位置づけている。
第三章では、「芸術とは何か」を検討した第二章に引き続いて、「それはいかにして可能か」という問いが検討されている。筆者は本稿における「芸術を為す」ことに対する考え方と同型の志向性を持つものとして、クレメント・グリーンバーグの美術理論を取り上げ、そこに含まれる「メディウム・スペシフィック」という理念に含まれる問題点と、「芸術を為す」ための積極的な可能性とを、主としてマイケル・フリード、コーリン・ロウとロバート・スラツキー、ロザリンド・クラウスらの理論と対照しながら検討している。その上で、筆者はジルベール・シモンドンの個体化論を参照し、それを「メディウム・スペシフィック」の「メディウム」概念に重ね合わせることで、「メディウム・スペシフィック」への可能性の観点を統合し、また同時にシモンドンの個体化論における「内的共鳴」「準安定平衡」「トランスダクション」といった概念を援用しながら、筆者自身が「芸術を為す」ためのより具体的な方法論の見取り図を描くことで、「(芸術)それはいかにして可能か」という本章の問いに答えを与えることを試みている。また章末では、本稿の考察において浮上した新たな問いが、今後の展望として述べられている。
第四章では本研究全体の意義や、研究と芸術実践との関わりが、芸術家としての筆者の立場から総括されている。
冒頭で述べたように、practice-based researchである本研究は、第二章、第三章の考察に基づき、実際に筆者自身によって「芸術」が為されている。博士審査展で展示される”Calling Occupants of Interplanetary Craft”は、この一連の芸術実践の最新の成果物(作品)である。本作品の概要と図版は、本研究に基づくその他の芸術実践の概要と図版とともに論文末尾に付録として付されている。