人間存在と彫刻

ー立像にみる存在と距離ー

本論文は、人間の造形的な活動から生み出され続けてきた彫刻作品をはじめとする人間像について、人間と人間像との間に現れる「距離」に着目し、自身の生きてきた環境から生まれる人間存在を形に残すことへの考えを述べるものである。
古代より人間の姿を模してつくり出されてきた人型の像には、「存在の強さ」が内包されている。人型の像は、その時代、地域に根ざし、人々が信じるもの(宗教、自然観、死生観)など強固な物語をバックグラウンドに現実の世界において、その物語を実像化することに特化して存続してきた。その土台には、現実とイメージの世界を繋ぎとめる普遍のもの(教義)がある。
私は、人型の像とは存在することが発する強さと鑑賞する立場にある者との「距離」の変化に多様性とまだ経験したことの無い間合いが感じ取れることを期待している。
現在においても、人型の像はつくり出され続けている。私自身が多くの作家の作品(人間像)を鑑賞した折に、感じる共感。彫刻作品(立体)の特徴のひとつである鑑賞者との間に出来る物理的な距離と作品(人間像)が持つ精神的な距離の感覚に自分と周囲の距離感に感じ取れる空気感と人間の根源的な気質の部分を構成し、自身のイメージの根底に「かわき」という言葉を提示する。
この「かわき」は私と周囲の関わり方、距離感のイメージを総括するものとする。「かわき」から派生するものを取り込み、自身の人間像をつくり出す手段(カービング)の中にみる不完全生を自覚し、咀嚼することであらわれる絵画にみられる背景を踏まえた造形について作品形成の過程と交えて論じる。
そして、「かわき」からの造形の展開の先に見える自身の等身大の距離に立ち返った角度からの試作を行う。肖像性とイメージを結びつけ、「形の重さ」という点に重きを置き、作品を形成する。2つの試作を通しみえる人間(私)と人間像の心理的な距離について考察する。

本論文は全体を以下の3つの章によって構成している。

第1章では「人間像が持つ再現性とイメージの形」とし、日本で発見された現在最古(縄文草創期)の土偶である《粥見井尻土偶型式》と縄文中期の立像土偶《西ノ前土偶型式》を取り上げ、人間と人型の像の接し方、関係する距離の変化を述べる。そこから、世界に残る人間像(ユリウス・カエサルの肖像、リアーチェの戦士A、アナヴィッソスのクロイソス像、カーアペル立像、シャルルマーニュの騎馬小像、ジグマリンゲンのキリストと聖ヨハネ)のあり方に目を向け、人型の像が生まれる環境をみつめ、自身の制作してきた人間像との「距離」を模索する。ここまでで、私が強く拘ってきたのは人型であるということ自体である。人型の像から感じる、自己の作品の核をなす「存在の強さ」との関わりをどのように持つかということについて手法と思考の面から述べていく。

第2章では「存在の強さとの距離:かわきの中の人間像」と題し、人間像を制作する中で自覚するようになった自身と人間像の関係に「距離」をあげ、それに自身と人間存在への間合いを投影させた「かわき」という造語を当てる。
「かわき」は、私のあやふやな距離感に言葉を当てたものである。この感覚を明確にし、自作品に反映させることを目的とした造形の展開について松本竣介(画家)、エドワード・ホッパー(画家)、フィリップ・K・ディック(小説家)それぞれの創作物にみる自己認識の仕方を読み取り、自身の試作の過程と照らし合わせ考えを整理する。また、その中でマジックリアリズム、メランコリーといった概念にふれることで創作の中に現れる潜在的な周囲との距離を意識的に作品に取り入れることを実践する。
そして、この章の総括として取り組んだ、人間を取り巻く景色を背負ったイメージからの造形によって「存在の強さ」と「かわき」の関わり方を自作品《かわきとひと》、《かわきの肖像6》、《かわきの肖像7》の試作と交えて探る。

第3章では「存在の強さとの距離:「形の重さ」と「距離」」として、第2章の「かわき」からの造形とは異なる角度から「存在の強さ」を考察する。現実に存在する、または、した人間からイメージを増幅し、創作される肖像について《鑑真和上坐像》をはじめとする肖像作品を取り上げながら変遷を辿る。
人間像を表した作品群を眺めると肖像と並ぶ存在が自画像であろう。ここでは、絵画における自画像と彫刻における自刻像の差異に着目し、自身の人間存在への考えと手法を「形の重さ」に結びつける事で、人間像の「存在の強さ」を求めながらも一定の距離を設けてそれを感じたいとする矛盾する感情を発見する。この現実を感じたいと思いながらも遠巻きにしてしまう私と人間存在の「距離関係」を作品に反映させた博士提出作品《静かな立像》、《ひとりとふたり》、《おだやかな立像》を題材に作品形成の過程について言及する。

静かな立像 / ひとりとふたり

「むすび」では人間像を、私が認識する私、周囲が認識する私、それだけでは完結することが出来ない私というものとの対峙から生まれた自己認識の手段であると考える。その中で自分が人間について考え、人間の姿を形に残す。その過程から人間像の「存在の強さ」を求めながらも距離を置いて存在を感じたいという矛盾した思考を発見する。この近くになり過ぎない、遠くになり過ぎないという距離関係で人間存在を感じたい。そこから生まれる人間像に私の今のリアリティがある。