「年中行事絵巻」の復元研究

―東京・田中家蔵 住吉本模本を中心として―

「年中行事絵巻」朝覲行幸(部分)の想定復元模写 2014年

本研究は、消失した原本に代わる模本事例として東京・田中家蔵 住吉本「年中行事絵巻」(以下、住吉本)を取り上げて模写精度と画面構成に関する検証を行い、その結果に基づいて「年中行事絵巻」原本(以下、原本)像を想定復元するものである。本研究の目的は、住吉本の模写精度、つまり原本図像への忠実さを明らかにし、先学において争論の的となってきた原本と国宝「伴大納言絵詞」の制作者問題に関して実技的観点からの試論を提示することである。
 原本は、模本と文献史料のみが現在に伝わる失われた絵巻で、平安院政期に後白河院の下命を受けて複数の宮廷絵師が制作したとされる。後世の文献によれば全60巻存在したと推定されているが、原本成立当時の文献が存在しないために真偽は定かでない。しかしながら、原本の制作には国宝「伴大納言絵詞」を描いた絵師の関与が有力視されるほか、民俗学や史料学など幅広い学術分野に影響を与える内容であったことから、その消失が惜しまれている。
「年中行事絵巻」の模本は複数系統現存することが知られ、その中のひとつに住吉本がある。住吉本は後水尾天皇の許しを得た土佐内記廣通(後に住吉如慶と改名、以下如慶)・廣澄(具慶)ら父子によって制作された江戸前期の模本で、全16巻から成る。その描写の質と量に加え現存最古の模本であること、そして同模本奥書の内容を根拠に最も原本に近い模本と位置づけられてきた一方で、貴重な史料とはいえ模写であるために研究史料としての限界があることも指摘されてきた。しかし筆者が調べた限り、これまでに美術史的観点からは住吉本図像に関する考察は行われてきたが、実技的観点から模写精度に関する同考察は行われていない。そこで筆者は、住吉本の模写精度を明らかにした上で原本像を想定する研究を着想した。
住吉本の制作態度と模写精度を検証した結果、住吉本は原本図像を正確に記録することを重視して制作された模本で、その制作方法は敷き写しであることが推定できた。しかし、形を正確に写すことが最優先されたために料紙は変更され、図像についても絵画としての空間意識が損なわれた表現となり、さらに現状の彩色についても如慶らではない後世の絵師の加筆によってなされた可能性が考えられた。よって、これらの要素が相乗して原本とは異なる印象となったものと推測できた。以上の点から、筆者は住吉本図像を構成する線描については極めて高い精度で原本図像を捉えていると結論した。
これまでの研究では住吉本図像に「摹し崩れ」が含まれることが指摘され、それが住吉本の史料としての限界の所以とされてきた。しかし今回の検証結果から、住吉本に含まれる図像の「摹し崩れ」が如慶によるものではなく、原本制作時に生じたものである可能性が指摘できた。つまり、如慶はすでに「摹し崩れ」ていた図像を正確に写し取ったと考えるのが自然であると思われた。また、住吉本と「伴大納言絵詞」の図像を詳細に比較したところ、ごく一部分において両作品の作風の一致が認められる箇所が確認できた。しかしながら、住吉本の大部分の描写についてはモチーフの骨格の捉え方が「伴大納言絵詞」とは本質的に異なったものが多く、作風の一致を認めるには至らなかった。したがって原本は、「伴大納言絵詞」の筆頭制作者とは別の絵師が「伴大納言絵詞」の作風を模倣して制作した作品である可能性が高いと見做すことができた。
また、住吉本図像の特徴についてさらに検証したところ、原本は部分的な画面を複数組み合わせてひとつに構成した図像であったことが推測できた。その制作方法は複数の部分的な原寸大下図を組み合わせて画面構成した後、料紙に下図の図像を転写するもので、この転写の際に原本図像が「摹し崩れ」たと推測するのが自然であろう。住吉本の一部に「伴大納言絵詞」の作風が見られる点についても、原本の制作時に使用された下図に「伴大納言絵詞」の筆頭絵師筆の図像が含まれていたためであると考えることによって辻褄が合うように思われた。
本研究で行った検証によって、住吉本の制作方法と原本図像への忠実さについて具体的な検証結果を示すことができたと考える。また、原本と「伴大納言絵詞」との関係性についても両者の共通点、あるいは相違点を列挙し、おそらく制作者が一致しないであろう根拠として提示した。しかし、研究範囲が巻一のみであることや住吉本の制作者や模写精度が巻によって異なる可能性が想定されることから、今回の結果だけでは住吉本図像の検証が不十分である点で課題が残った。今後の美術史研究分野における実技的観点に基づく研究手法の可能性も含めて、今後の研究の更なる発展に期待したい。

住吉本の模写精度の検証
「年中行事絵巻」原本制作時の下図