写真と存在
父という他者を撮ることについて
二〇〇八年の九月に父が蒸発したことをきっかけに、私は父の写真を撮り始めた。父の写真を撮ることは現在も継続しているが、今では私が父にカメラのレンズを向けてシャッターを切るのではなく、三十五mmフィルムのコンパクトカメラを父に預け、父に父自身の顔を毎日一枚撮ってもらうというかたちになってい
このような撮影方法は父が自発的に始めたわけではなく、私が父に依頼するかたちで始まった。毎日自分の顔を撮るように父に依頼したとき、私のなかに何か明確な意図なり考えがあったわけではなかった。そもそも、私は父がこれほど律儀に写真を撮ることを継続してくれるとは思っていなかった。この「父の自撮り写真」においては、いかに父を撮るのかということは問題にならない。父がどのような表情をしているのかということも問題ではない。この写真は、そのような「意味」の領域にはないのである。この写真においては、父がそこにいたということ、父が父自身に向けてシャッターを切ったということだけが問題なのであり、父の「存在」さえ写っていればそれでいいのである。父を撮り始めた当初は、父の何をいかに撮るかということ、つまり父にどのような「意味」を与えるのかということが考えるべき問題としてあった。だが、撮影をおこなっていくうちに、私にとって父を撮るということはそのような「意味」の領域から、次第に「存在」の領域へと移行していった。私は父を撮る経験を通して、写真というものは、「意味」の領域に関わるものであるというよりも、「存在」の領域に関わるものだという認識に至った。
本論文は、私自身の父を撮るという経験について記述することを通して、写真が「意味」ではなく、「存在」と不可分なものであることを浮かび上がらせる試みである。本論文は大きく二つに分けられる。前半部分では、私自身の経験について記述するうえでの参照軸を設けるために、ロラン・バルトの『明るい部屋』を「写真との関係」という観点から読み解く。写真論であると同時に、死についての哲学的な書、自叙伝、私小説等々として読むことができる複数的な書物である『明るい部屋』は、全体で四十八節から構成され、前半の二十四節が一章、後半の二十四節が二章にわけられるというシンメトリーな構造をもっている。一章では、バルトは自分の関心をひくことができる数枚の写真を取り上げ、それらの写真に対する自身の主観的な反応に基づいて写真についての考察をおこなっていく。だが、バルトはこのような方法では写真の本質には到達できないと限界を感じ、これまで語ってきたことを「撤回」する。そして、二章からは、亡き母の存在そのものを与えてくれる唯一の写真である「温室の写真」を基に考察をすすめていく。そしてバルトはこの「温室の写真」を通して、写真はそこに写っている被写体(指向対象)が必ず現実に存在したものでなければならないのであり、それゆえ写真の本質はその指向作用にあるということを見出すのである。だが、「温室の写真」を通して見出されたはずの写真の本質は、『明るい部屋』の冒頭で写真についての考察の端緒として、誰が見ても一目でわかる写真の性質として挙げられているものと実は同じものなのである。同じものであるにも関わらず、「温室の写真」において見出されたときには、写真の指向作用は写真の本質としてバルトの心をとらえたのであった。では、そこでは一体何が変化していたのか。それは「写真との関係」である。最愛の母の真実の姿を与えてくれる「温室の写真」は、バルトにとってのみ特別な意味をもつものであり、バルトと「温室の写真」とのあいだには極めて親密で個人的な関係、他の何者も介入しえないような特別な関係が生じているのである。写真に対してこのような関係をもつことができたとき、写真の指向作用は、「なぜ、私はいまここにいるのか」という「存在」についての根源的な問いをつきつけてくるほどの驚きを伴ったものとなるのである。バルトは写真を私たち人間との「関係」という観点からとらえることによって、写真を単なる視覚的なイメージとしてではなく、私たち人間の「存在」そのものを揺るがすような、いわば「狂気」を孕んだものとしてとらえなおそうとしているのである。
本論の後半部分からは私自身の父を撮るという経験について記述しながら、写真と存在の関係について考察をおこなっている。私にとって父の写真を撮るということは、「父と息子」という「意味」に基づいた関係性の外から父を見るということであり、また、父という人間の了解しえない異質な部分=他者性を「意味」に回収してしまうことなく、了解しえないものを了解しえないままに「存在」させるということだった。また、そうして撮られた「父の写真」は、生身の肉体をもった現実の父とは完全には一致しない異質な他者として、現実の父とは異なるひとつの「存在」としてあらわれてくるのであり、そのような「父の写真」と私とのあいだには、現実の父との関係性とは異なる独自の関係性が生じるのであった。