文身
この表現は、「祈り・誓い・願い」によって、文身を施す人を募集し、そこにある言葉を一文字の書で表してそれをその身に刻むというものです。
「文身」は訓読して「イレズミ」とされます。イレズミという行為は、宗教や文化などに応じて幾つかの意味や価値を生じさせる多義性を持つ行為です。日本においてイレズミは、刑罰としての「負の文脈」を有しながら、一方で祈りや誓い、願いや神聖化の意味合いで行われる「正の文脈」を併せ持つ行為です。平安時代には信仰との関係から僧侶が、文身を行なっていたとする文献もあります。その身体への行為には、聖穢併せ持ち、その表象を形成しています。
意味は「文化」によって違いがあります。その文化の違いとは、シンボル性の違い、乃ち、その社会における所のシンボル性の枠組みの違いとなります。同じ対象であるにも関わらず、見る人に応じて聖性と穢性の差異が生じる背景には、シンボル性の枠組みの乖離、すなわち、シンボルシステムの乖離が、人と人との間で生じていることを指します。
何かを好意的に見る人、否定的に見る人。価値を異にしシンボルシステムに差(ちがい)を持つ人達が集まって、この社会、世界は構成されています。
「価値」や「意味」にはズレが存在しますが、。このような価値や意味を形成する「意識のズレ」(シンボル性の違い)を扱うことは、人間における「正しさとは何か」という問い掛けへ繋がっていくと考えます。
私はこの表現を通して、人間と人間の間に生じる摩擦とは、何かを問いかけます。イレズミ行為は、歴史的文脈から、聖穢両義を併せ持ち、人間の価値、判断、意味の形成、シンボルシステムによって形成されるそういった見る者の立場に応じての認識が顕在化されやすくなります。
イレズミ行為に存する対義性をきっかけとし、人間の行為というものには幾つもの、「視点」や「認識の在り方」があることを浮き上がらせることで、「人間の価値としているもの」または、「価値としてきたこと」の再検討をしたいと考えます。それを通して人間の価値形成、それに伴う人間の態度を確認し、そこに内包される虚構性、または暴力性についての問題定義を行っています。
この表現の名称は、白川静の文字学で語られていた「文身」という言葉から引いたものとなります。古代文字では「文」は、人の正面形を象り胸にイレズミ(文身)した人の姿だと言われています。これを白川は、人体を聖化するために施したものといいます。
古代文字の図像には、古代世界のシンボルシステム(形に伴う意味世界)が見られます。同時に青銅器や玉器といった考古的遺物の図像にも、古代世界のシンボルシステムが見られます。この二つの媒体(文字・紋様)にある図像を関係させて、古代にあったシンボル性を論考したのが、この「文身された聖のかたち」というものになります。
この論考では、古代世界にみる文身行為を基にした所で、イレズミ行為の二義性について考察しています。文字学と紋様学を関係させたところでの図像解釈によって、古代世界における文身行為の聖性を明らかにしています。
そこでは、新しい世界観の提示が行なわれており、「あなたが意味や価値として教えられていたものが、実は誤りであった。」と、そのような気持ちを体験する事ができるよう。この論文は構成されています。