→油画
新井 麻弓 
 

→審査委員   
小山 穂太郎
 須永 剛司 ミヒャエル・シュナイダー
 O JUN 岡原 正幸 井本 由紀

表現活動とは、何かを希求する⼼を表に現す試みであり、⼀つのかたちに定まった静的なモノというよりもむしろ、常に動きつづけるコト、⾏為そのものなのだ。それは、活動を⾏う主体のもつ「⾃⼰」とは異質な「他者」とのかかわり合い、気づきと応答の積み重ねによって、時に本来の意図を超えて変化していく。
本論⽂は、その表現活動を内包する芸術実践のもつ創造性のあり⽅を、実践者⾃⾝によって模索する物語であり、芸術実践論であり、芸術実践そのものである。
表現活動とは本来、作品と制作という様に、どこからどこまでが結果か、過程か、線を引くことは⾮常に難しい。例えば、実践者⾃⾝の経験をもとに抱いた何かしらの問題意識が表象される時、その動機となった経験と表象を⽣み出す過程は地続きであるはずだ。また、それは個々の活動や個々の発表時によって、その都度変わってくるものだろう。表現活動の過程全体を発表されることもあれば、ある⼀部分を切り取って発表される場合もありうる。つまり、表現活動の中⾝は、外側からではなく、その表現活動を⾏った主体⾃らが内側から向き合わなければ、描き出されないのではないだろうか。
そこで私は、2015年から継続しているスイス⼈コンテンポラリーダンサー兼演出家であるニナ・ウィリマンとのユニットWillimann/Arai の表現活動を事例とし、個々の体験について緻密な記述と省察を繰り返し、またそうしている⾃⼰さえも対象化しつつ得られた知を、芸術実践の歴史に書き込み、歴史を変えるということを試みる。この⽅法論を、私はオートエスノグラフィーと位置付けたい。
オートエスノグラフィーとは、従来の証拠の客観的・中⽴的な解釈を重要視する研究⽅法に対して⽣まれた、「調査者が⾃分⾃⾝を研究対象とし、⾃分の主観的な経験を表現しながら、それを⾃⼰再帰的に考察する⼿法」*1 である。この再帰的reflexive とは、書き⼿⾃⾝の置かれている⽴場を社会的・⽂化的諸側⾯から振り返ること*2 であり、また「実際に体験した現場に⽣々しく⽴ち戻り、経験された感情を⽣き戻すこと」*3 である。 また、本論では、表現活動を実践する主体の中で起こっている現象を語るために、本来不可分なはずの⾃⼰を致し⽅なく分け、2つの配役をつくらざるをえなかった。なぜならば、現象とともにいる主体は外から⾒なければ、表象できないと感じたからである。その配役とは、表現活動を⾏う主体としての《「わたし」》であり、もう⽚⽅は、⾏なった表現活動とその渦中の「わたし」について考察をし、記述する主体としての《私》である。本論は、この2つの配役と、ウィリマンを主な登場⼈物として進み、以下のような流れで展開する。
まず第3章、4章、5章では、表現活動の中⾝を探るために、Willimann/Arai の表現活動から⾹港、群⾺県中之条、台湾で⾏った3つの活動を事例として取り上げる。各章では、それぞれの活動地における⽂脈の中で、活動の対象である相⼿とのかかわり合いを通し、表現活動を⾏う主体である「わたし」の中に⽣じた体験が記される。また、同時に活動の共同実践者や参加者に起こったことを述べていく。
第6章では、3、4、5章で述べた表現活動の中⾝をさらに深く掘り下げていくために、Willimann/Araiの表現活動に通底する基本的態度としての表現とその意味付けの考察を⾏う。そこから、その表現が、3、4、5章で述べた活動において、どのような影響を与えていたのかについて検討する。
第7章では、それまでの議論をもとに、表現活動の中⾝の体験について、改めてまとめて述べることで、表現活動のもつ意義や価値を⾒出し、さらにその表現活動を内包する芸術実践のもう1つのあり⽅を描き出すことを試みる。
第8章では、以上の議論を踏まえた上で、今回おこなった論⽂を執筆するという芸術実践を通して、⾏なった表現活動について考察し、記述している主体としての私の中におこったこと、そして「わたし」と私の関係性を述べ、この論⽂の締めとする。
近年、表現活動の設定や構造、主体の多様化により、従来の芸術実践のもつ創造性のあり⽅に対する⾒直しが迫られているように感じる。全体を把握しようと試みる美術評論家たちは、動機も意図も異なる個々の表現活動に枠を与え、それらを分けて理解しようと、新たにつくった枠の名称を絶えず増やし続ける*4 ⼀⽅、美学的評価や価値判断の限界を露わになっている*5 のが現状ではないだろうか。私は、この状況を変えるべく、表現活動を外から批評する側と実践する側の〈⾒る・⾒られる〉の構造を超えて、他の誰でもない表現活動を⾏う主体が、⾃分⾃⾝の経験や知を通して培った芸術実践の意義や価値をふくめた在り⽅を、他者にも知覚可能にする必要があると考える。そうすることによって、その在り⽅は更新されていくものなのだろう。本論⽂は、その1つの取り組みとして⾏われる実践である。また、それがさらには芸術実践を含めた学術世界や「他者」そして社会に向き合う新たな態度の提⽰となることを願う。

*1 井本由紀「オートエスノグラフィー – 調査者が⾃⼰を調査する- 」(藤⽥結⼦, 北村⽂. 『現代エスノグラフィー: 新しいフィールドワークの理論と実践』, 2013年), p. 104
*2 同上
*3 岡原正幸「喘息児としての私―感情を⽣きもどすオートエスノグラフィー」(岡原正幸, ⼩倉康嗣, 澤⽥唯⼈と宮下阿⼦. 感情を⽣きる: パフォーマティブ社会学へ. 東京; 東京: 慶應義塾⼤学三⽥哲学会 ; 慶應義塾⼤学出版会 (制作・発売), 2014年.), p.78
*4 ソーシャリー・エンゲージド・アート 、コミュニティ型アート、実験的コミュニティ、対話型アート、浜辺のアート、介⼊主義的アート、参加型アート、協働型アート、コンテクスチュアル・アート、ソーシャル・プラクティス、その他多数、表現活動を名付ける枠組みは増え続けている⼀⽅である。
*5 美術批評家クレア・ビジョップは、著書『⼈⼯地獄』の中で、アートコレクティヴ「スーパーフレックス」によるリバプールの⾼層住宅でのインターネット放送プロジェクト《テナント・スピン》に対する、キュレーターのチャールズ・エッシェによる批評⽅法において、「これらの価値判断は証明可能な結果を重んじる政府の芸術政策と似たり寄ったり」 と語る。(クレア・ビショップ, と⼤森俊克. ⼈⼯地獄: 現代アートと観客の政治学. 東京: フィルムアート社,2016年. p.37)