本論文は、「所在の輪郭 -包まれる風景へ」と題し、絵画を基軸とする筆者が、人の居る場所としての〝家〟やその周囲環境をくり返し探る行為によって、個人とその周縁から生起される固有の風景を捉え直し、生きる場所や居どころを考察する創作論である。
薄皮一枚隔てた向こう側はいつも未知数で、知ったふりをしながら実のところよく分かっていないことで溢れている。私たち人間は、言語によって眼前の事象ひとつひとつに呼称、意味や価値を与え、観念を共有することで、初めて漠然と広がる世界を捉えられるようになった。言語を持たない生後まもない赤子は、心身の発達とともに自己の身体と外側を分け隔て、世界を少しずつ固有のものとして認知してゆく。〝外〟の驚異と出逢いを繰り返しながら、やがて目の前の出来事を当たり前の日常として接するようになる。しかし私は、身近な〝外〟となった日常への気づきにこそ、打ち返される新たな対象としての〝内〟、自己とその居どころを再確認する重要な契機があるのではないかと考える。個人の所在を捉え直す行為が、同時に他者や外界との関係性を再考させる。日々揺動する世界において、はたしてどこからどこまでが内側で、どこからどこまでが外側といえるのだろうか。今一度、眼前の風景に触れ、確かめることからはじめてみる。
本論文の構成は、3章から成る。
第1章「所在の輪郭 -人の居る場所」では、第1節「人の居る場所」で、私たち人間と場所との身体的・心理的な結びつきを考察し、本論文のテーマ〝所在〟と〝輪郭〟の意味する範囲を定める。第2節「家 -広がりゆく地点」では、人間が生きていく上で欠くことのできない〝家〟という存在について考察する。ここでは〝家〟を、私たちの身体を包みこむ〝始まりの場所〟として捉え、家の性質や役割、住居の発展と展開に触れながら、住まいが個人に与える影響と相互作用性について述べる。また住まいと居住する身体の関係性から生まれる「家」という存在と、そこから生起された自作品について解説する。人々が帰りたいと希求する〝家〟とは、どのような姿をしているのだろうか。室内と室外の視点から〝家〟にまつわる記憶とその輪郭を探る。第3節「変容する家々の風景」では、家の外に広がる風景の変容について、自身の生まれ育った町の変容、空き地の発生、様々な土地の暮らしから見える家の有り様について論述する。
第3章「窓からの眺め」では、〝窓〟を起点に、主体を取り巻く身近な環境への観察行為の繰り返しによって生まれる、個々人にとっての固有の〝眺め〟について考察する。第1節「開かれた窓」では、家の内外の境界に位置する〝窓(眼)〟の存在、建築物で窓の果たす役割、絵画史の中で描かれた〝窓〟とその表象について、筆者の個人的体験に触れながら、自作品での〝窓〟とそこから外界を〝眺める〟行為について述べる。第2節「連なる窓 -風景の手触り」では、〝眺める〟行為から風景のなかに入り込み、日常の景色を味わうための方法として、対象とそのイメージに〝触れる〟行為について論じる。また、三重県内の小学校で実施したワークショップの取り組みを中心に解説し、五感を介した外界との触れ合いから生起される〝風景〟とその眺めについて考察する。
第3章「博士提出作品《青の遊泳》-包まれる風景へ」では、第1章、第2章での論考を踏まえ、家と窓の外に広がる人の居る場所、〝包まれる風景〟について考察する。ここでは、筆者の祖先に関係する土地・三重県鳥羽市を訪ね歩いた体験から、暮らしが密に凝縮され、自然と人間が共存する海辺の町を題材にした自作品を始め、海とともに生きる海女や、その暮らしの様相をモチーフに制作した提出作品《青の遊泳》について論じる。「青」は日々移りゆく海と空の象徴であり、陸地と海中を行き来しながら生きる海女にとっての、身体を包み込む居場所そのものと言える。彼女たちの語りからこぼれ落ちる風景の断片を拾い集めながら、〝包まれる風景〟としての自作品《青の遊泳》を提示する。