Craft

17世紀「Kick」工房のラッカー表現と日本の漆芸表現の比較

パン ゴンペルディブ

論文は、5つの章から成り立ち、問題提起を投げかけた「はじめに」から始まり「結論」で終わる。この論文は、日本とオランダの関係性を探究し、日本と西洋の文化的架け橋としてのラッカーに焦点を当てる。この話の中心は、文化的入口としてのアムステルダムの位置づけと東洋と西洋のラッカーの間の垣根を取り払った最初の人物であるウィレム・キックの位置づけである。そのため、この論文の中心的な研究課題は、「ウィレム・キックが作品の創作を行う上で、どの程度日本からの輸入漆器に影響を受けたか」である。歴史的な証拠はいくぶんか希薄であるが、この論文は、その影響は見かけより明瞭でないことを論ずることを試みる。

Willemと日本に関する議論を始めるため、適切な歴史的フレームワークを描写することが非常に重要であると認識している。そのため、先程の研究課題は、下記2つの小研究課題により補足される。1つ目は、「17世紀および18世紀の間、どのような方法により日本の輸出漆器はヨーロッパのインテリア様式に吸収されたのか?」2つ目の重要な課題は、「どのようにヨーロッパラッカー技術は発展し、どのような方法によりその職人は日本の漆技術をまねようとしたのか?」

日本の漆の歴史は東京藝術大学の教授たちよく知られているため、日本の漆の歴史について議論することは差し控えるにした。代わりに、この論文は主に輸入漆器を通じたヨーロッパと日本の関係とヨーロッパラッカー技術の発展について焦点を当てる。第1章は、日本の輸入漆器について論じる。日本輸入漆器の3つの特徴的な時期、南蛮漆器、紅毛漆器および明治時代輸出漆器について、論じる。

第2章は、ヨーロッパラッカー工芸の一般的な発展について論じる。ヨーロッパラッカー工芸は、17世紀前半まで日本漆器とは無関係に発展した。シノワズリの大流行の後、18世紀後半にラッカーはヨーロッパのツールに戻り、その後、ジャポニズムが流行した19世紀に、日本漆器に対する興味が活発になった。この3世紀間、ヨーロッパラッカーは、ゆっくりと明確な工芸の一派として成長したが、ヨーロッパの制限的なギルド体制により、未だに装飾的なペインティングと金箔技術と強い繋がりを有していた。

この歴史的なフレームワークを論じた後、第3章は、日本への文化的な入口としてのオランダ、特にアムステルダムと今では有名なラッカー先駆者のウィレム・キックについて焦点を当てる。この章では、日本とアムステルダムの相互関係およびキックがどの程度、輸出向け南蛮漆器により影響を受けたかを論じる。



第4章は、漆とヨーロッパラッカー材料の比較を行い、それぞれの材料の長所・短所を明らかにする。この章では、ヨーロッパの職人が東洋の漆器の複製を作るために材料的な制限を乗り越えるためにどのような努力をしたのかを論じる。全く異なる材料や道具で作業しながらも、ヨーロッパの職人は日本から到来した最も人気のある装飾技法を模倣しようとするために著しい想像力を発揮した。アムステルダム国立美術館とミュンスターにあるラッククンスト美術館の展示品が、この代表的な例に該当する。

最終章は、私の芸術)作品と日本で暮らした4年間で私のラッカーに対する思いがどのように変化したかを述べる。また、日本の漆器とヨーロッパラッカーの関係およびラッカーの芸術として、工芸としての未来について私の考えを共有したいと考える。
審査委員
小椋範彦 井谷善惠 青木宏憧 黒川廣子 三田村有純  山崎剛

パン ゴンペルディブ

17世紀「Kick」工房のラッカー表現と日本の漆芸表現の比較


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