Craft

「空っぽ」という死生観

柴田 早穂

 いかなる生命にも必ず訪れる死。家族の死を受け、拠り所をもたない私の心は不安定に揺れ動き、混沌と悲しみの中にずっと佇んでいる。漠然とした恐怖からその死に向き合うことができず、後悔は大きくなり続けている。普段は心の奥深くにしまってある悲しみと後悔は、感情を少しでも緩めたとたんに堰を切ったように溢れ出す。しかし、そんな悲しみの淵にいても、晴れた空にいつまでも流れていく雲を眺め、自然の中で淡々と営まれる生命の連鎖をみると、生と死の根源的な「光」を感じずにはいられない。そして深く生の感触を噛み締める。その「光」が心に蓄積されていき、いつの間にか導かれた先には、ただの「空っぽ」があった。「空っぽ」に、生命の根源的な拠り所のようなものを感じ、自身の死生観を表現する言葉として用いることとした。時間や物質などの様々な境界を超えた繋がりを享受しながら「空っぽ」を生きているという感覚は、生と死、自身の存在、生命のあり方への、新たな思いを育んでいく。
 制作において、素材を介する過程の中で、意識の領域外での偶発的な現象が多々起こる。素材と行為を制御するのではなく、寄り添い、制御されていく。また、行為を反復するうちに意識の介入が薄れていき、目的をもった意識が徐々に麻痺していき、自身が生かされている世界の姿が、自身を通して(自身の意識を超えたところで)現れる。制作過程での行為がもたらすものは、イメージを現実のものとすることではなく、意識と意識の領域外の界面を漂いながら空間に刻まれていく痕跡との思索の時間である。その中で自身を超えて作品が生まれるときに光をみる。それは、生命の根源的な光へと繋がっている光のように感じられる。自身と制作の関係には、鋳造を用いた制作過程による五感への作用、及び精神的な作用が密接に関わっている。環境や体温などの細やかな温度変化・重力によって可変していく素材の触感、制作過程の産物である型がみせる、原型の周りの空気をゆるやかになぞるような必然と偶然から成る造形に覚える心地良さ、最終的な造形が不在のままに過程が進行していき、「有る」と「無い」を常に同居させている不安定な状態、坩堝の中で熱と光を放ちながら熔け落ちて混ざり合う金属に原始的なものをみる感覚、研磨されて再び輝きだす瞬間の妖しく揺れ動くようにみえる金属素材の確かさと不確かさを兼ねた存在、などが自身を超えたところで作品が成立する瞬間をもたらす。
 
 生と死の根源的な「光」、「空っぽ」という死生観に漂う空気感を映し出す表現として、その過程が引き起こす精神的作用が死生観に深く関わり、意図的に意識と意識の領域外を行き来するような行為を生み出せる「鋳造」を用いて空間への痕跡をゆるやかに刻む。
 
 以下のような思想を踏まえて述べようとする内容は、生と死に端を発する「光」「空っぽ」「繋がり」「境界」というキーワードを中心とし、以下のとおりの章構成である。
 第1章「空っぽにある光」では、家族の死への葛藤を抱えながら制作した修了作品「月夜に犬」と、続く「死の出発」と「トーテム」の制作を通して変化していく死生観が「空っぽ」に至る経緯を辿る。そして、改めて実際の死についての記憶を辿った後、「空っぽ」という死生観についての定義を述べる。
 第2章「素材・行為・表現」では、鋳造との出会いと、死生観に大きく影響している鋳造の背景への想像から広がる、時間や物質などの様々な境界を超えた繋がりについて考察する。また、実際の制作工程を記述し、それに基づく思考や、意図的に意識と意識の領域外を行き来するような行為について具体的に述べていく。
 第3章では、博士審査展提出作品について論じる。「空っぽ」という死生観をより具体的に探りながら、同時に進行していく制作過程について、双方を関連づけながら詳述する。自身の存在と生命のあり方についての考察の場として、自身の日常に対して少しの非日常を設け、その体験から導かれた思考をもとに、生物学的な生命観や、自然科学的な生命の連鎖についての考察を踏まえながら自身の考えを述べる。
 最後に、本研究において用いた表現を通して、表現の意義とこれからの作品制作の展望について述べ、本論文を総括する。
審査委員
赤沼潔 片山まび 藤原信幸 谷岡靖則

柴田 早穂

「空っぽ」という死生観


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