Conservation
肉筆浮世絵の研究MOA美術館所蔵 重要文化財「婦女風俗十二ヶ月図」勝川春章筆の想定復元模写を通して
向井 大祐
本研究はMOA美術館所蔵重要文化財「婦女風俗十二ヶ月図」勝川春章筆(以下MOA美術館本、原本)を取り上げ、先行研究をふまえながら制作当初のMOA美術館本の想定復元を試みるものである。実際に模写制作を行うことで得られる絵画の技法、構成面からみた実技的な見地と、作品形態の復元による当初の鑑賞形態の考察を通して、浮世絵における肉筆画の位相の再検討を図るとともに、肉筆画と版画の関係性について一例を提示する。
浮世絵は世界でも例を見ない独自の発展を遂げた芸術であるが、その芸術的評価においては大量生産品である版画が一点制作の肉筆画に勝るというユニークな逆転現象が今日では起きている。それは浮世絵の本質が大衆芸術であり、町人の需要に対して大量生産が可能な版画が、まさに浮世絵の独自性を体現した表現様式であったからだ。しかし浮世絵師は版画とともに一点制作の肉筆画も精力的に制作しており、版画と肉筆画の二つの方向性はお互いに作用を与えて浮世絵の芸術性を発展させてきた。特に江戸時代中期の明和~寛政(1764-1803)は多色摺版画、いわゆる錦絵の降盛により浮世絵芸術はひとつの黄金期を迎え、版画、肉筆ともに質の高い優れた作品が数多く生み出された注目すべき時代である。錦絵の発展とともに浮世絵の主流は次第に版画へと移っていくが、その転換期にあって肉筆画による数多くの傑作を遣した浮世絵師として、第一に勝川春章(1726~1792、以下春章)の名前が挙げられる。江戸時代中期に活躍した数多い浮世絵師の中でも、版画と肉筆画の両面で活躍した春章は希有な存在である。
研究作品のMOA美術館本は重要文化財の指定を受けており、春章の代表作であるとともに肉筆画の第一級の名品として殊に高い評価がなされてきた。十二ヶ月の月次風俗の画題を美人画として置き換えたもので、柱絵を意識した縦長の画面にそれぞれの月の風俗が巧みに構成されており、描写の細やかさにおいては他の作品の追随を許さないものとなっている。古来、肥前平戸藩主松浦家に伝来したと伝えるもので、戦前中野忠太郎氏の有に帰し、戦後になって静岡の熱海美術館(現MOA美術館)の所蔵となり現在に至っている。風俗十二ヶ月図という作品名の通り本来は十二図の揃いものであったはずであるが、早い段階で一月と三月の二図が失われたと考えられ、後年に制作された歌川国芳(以下国芳)による補作である三月 潮干狩図を含めると十一幅が現存している。この一月と三月の図を欠いた経緯については不明な点が多く、古くから未完説が取り上げられることもあるが、十二ヶ月のそれぞれに付属した聯歌全十二幅が現存しており、その存在を考慮すれば当初は十二図の揃いものであったことは確かである。また作品の形状は現在十一図(国芳の補作を含む)全て掛軸装となっているが、過去の表装形態は六曲一双の屏風で、あったとの記述
が確認され、その場合やはり十二図が屏風として備わっていたものと考えることができる。また、その屏風は自由に絵を取り外すことのできるきわめて特殊なつくりのものであった可能性も指摘されている。
以上、図の欠失と表装形態の改変についてはMOA美術館本の論点として先行研究で述べられてきたものである。現存しない春章の手になる一月、三月の図の内、特に前者は国芳による補作も行われておらず、付属する歌聯の五言二句の内容から正月の画題であることが分かる程度で、その図様に関しては謎に包まれており、後者に関しては両題こそ共通しているものの春章と国芳の作家性の違い、時代の隔たりが感じられる。本研究ではこれまで言及されることのなかった春章門弟である勝川春潮の版画作品「風俗十二候」との関連性を検証し、春章のMOA美術館本の図様を転用している可能性が高いことを明らかにする。また実際に復元図を制作することで版画と肉筆での表現の違い、春章と春潮または国芳との作家性の違いを実技的な見地から明示し、浮世絵における肉筆画と版画の相互のつながり、浮世絵の変遷の中でのMOA美術館本の位置を定義づける。掛け軸装以前の屏風装への鑑賞形態の再現については、各扇各図の取り外しができる構造について不明な点が多いものの、軸装になる前の写真資料、類似の構造の屏風を参考にする。屏風になることで全体の有機的なつながりを見せることができ、尚かつ個々の絵画として独立して鑑賞できるという特殊な趣向の一例を示すことができると考えられる。
MOA美術館本の作品としての芸術的価値は今日において定まったものであるが、これまで浮世絵の肉筆画として実技的な面からその芸術性が論じられることは少なかった。本研究は仮説の検証をもとに制作当初の十二図の揃いものとして想定復元模写制作を行うことで肉筆画の傑作としての特異性を明らかにする。
浮世絵は世界でも例を見ない独自の発展を遂げた芸術であるが、その芸術的評価においては大量生産品である版画が一点制作の肉筆画に勝るというユニークな逆転現象が今日では起きている。それは浮世絵の本質が大衆芸術であり、町人の需要に対して大量生産が可能な版画が、まさに浮世絵の独自性を体現した表現様式であったからだ。しかし浮世絵師は版画とともに一点制作の肉筆画も精力的に制作しており、版画と肉筆画の二つの方向性はお互いに作用を与えて浮世絵の芸術性を発展させてきた。特に江戸時代中期の明和~寛政(1764-1803)は多色摺版画、いわゆる錦絵の降盛により浮世絵芸術はひとつの黄金期を迎え、版画、肉筆ともに質の高い優れた作品が数多く生み出された注目すべき時代である。錦絵の発展とともに浮世絵の主流は次第に版画へと移っていくが、その転換期にあって肉筆画による数多くの傑作を遣した浮世絵師として、第一に勝川春章(1726~1792、以下春章)の名前が挙げられる。江戸時代中期に活躍した数多い浮世絵師の中でも、版画と肉筆画の両面で活躍した春章は希有な存在である。
研究作品のMOA美術館本は重要文化財の指定を受けており、春章の代表作であるとともに肉筆画の第一級の名品として殊に高い評価がなされてきた。十二ヶ月の月次風俗の画題を美人画として置き換えたもので、柱絵を意識した縦長の画面にそれぞれの月の風俗が巧みに構成されており、描写の細やかさにおいては他の作品の追随を許さないものとなっている。古来、肥前平戸藩主松浦家に伝来したと伝えるもので、戦前中野忠太郎氏の有に帰し、戦後になって静岡の熱海美術館(現MOA美術館)の所蔵となり現在に至っている。風俗十二ヶ月図という作品名の通り本来は十二図の揃いものであったはずであるが、早い段階で一月と三月の二図が失われたと考えられ、後年に制作された歌川国芳(以下国芳)による補作である三月 潮干狩図を含めると十一幅が現存している。この一月と三月の図を欠いた経緯については不明な点が多く、古くから未完説が取り上げられることもあるが、十二ヶ月のそれぞれに付属した聯歌全十二幅が現存しており、その存在を考慮すれば当初は十二図の揃いものであったことは確かである。また作品の形状は現在十一図(国芳の補作を含む)全て掛軸装となっているが、過去の表装形態は六曲一双の屏風で、あったとの記述
が確認され、その場合やはり十二図が屏風として備わっていたものと考えることができる。また、その屏風は自由に絵を取り外すことのできるきわめて特殊なつくりのものであった可能性も指摘されている。
以上、図の欠失と表装形態の改変についてはMOA美術館本の論点として先行研究で述べられてきたものである。現存しない春章の手になる一月、三月の図の内、特に前者は国芳による補作も行われておらず、付属する歌聯の五言二句の内容から正月の画題であることが分かる程度で、その図様に関しては謎に包まれており、後者に関しては両題こそ共通しているものの春章と国芳の作家性の違い、時代の隔たりが感じられる。本研究ではこれまで言及されることのなかった春章門弟である勝川春潮の版画作品「風俗十二候」との関連性を検証し、春章のMOA美術館本の図様を転用している可能性が高いことを明らかにする。また実際に復元図を制作することで版画と肉筆での表現の違い、春章と春潮または国芳との作家性の違いを実技的な見地から明示し、浮世絵における肉筆画と版画の相互のつながり、浮世絵の変遷の中でのMOA美術館本の位置を定義づける。掛け軸装以前の屏風装への鑑賞形態の再現については、各扇各図の取り外しができる構造について不明な点が多いものの、軸装になる前の写真資料、類似の構造の屏風を参考にする。屏風になることで全体の有機的なつながりを見せることができ、尚かつ個々の絵画として独立して鑑賞できるという特殊な趣向の一例を示すことができると考えられる。
MOA美術館本の作品としての芸術的価値は今日において定まったものであるが、これまで浮世絵の肉筆画として実技的な面からその芸術性が論じられることは少なかった。本研究は仮説の検証をもとに制作当初の十二図の揃いものとして想定復元模写制作を行うことで肉筆画の傑作としての特異性を明らかにする。
審査委員
宮廻正明 有賀祥隆 荒井経 木島隆康 國司華子 京都絵美
宮廻正明 有賀祥隆 荒井経 木島隆康 國司華子 京都絵美